ジュニアスポーツ、アジア交流大会

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東京都がアジアの青少年のスポーツ交流を通じた相互理解を深めようとこの10年ほど交流大会を実施している。バトミントンと柔道で始まったこのプログラムは、3年前からバトミントンと卓球種目で実施されている。国レベルではなく、東京という都市とアジアの都市を結ぶという地域性を持ち、東京オリンピック・パラリンピックが決まる以前から始まったプログラムということで2020年以降も継続されることが期待される。

参加都市は、シンガポール、台北、トムスク(ロシア)、ウランバートル、ヤンゴン、バンコク、デリ、ハノイ、香港、ジャカルタ、クアラルンプール、マニラ、ソウルなど各国の首都がリストアップされている。

東日本大震災で被災した福島、宮城、岩手県からの青少年も招待されている。そして東京2チームと茨城県チームがホーム代表である。アジアの各都市の16歳未満の少年少女を迎えて8月23日から29日までスポーツを通じた交流を楽しむことになる。

車いすや義足つけた障害者アスリートも多数参加していた。片腕が肩から全く無い少女や、知的障害とみられる少年も顔をくしゃくしゃにしながらボールをひたすら追い続けていた。

近藤欽二氏の指導者研修は、映像を使った効果的なものだった。すべて日本語である。これをアジア各都市からやってきたコーチ一人に対し、一人の通訳がついて解説する。

田中さんというスポーツプロモーションという会社の方が、通訳はみんなその国出身で日本語が堪能な人たちを集めたと説明してくれた。最近は各国から日本に来て仕事や勉強、あるいは家庭をもって長期滞在している人が増えている。人材派遣会社もそこに目をつけて、正式な通訳として活用しているとのこと。この会社は90%以上サッカーをあつかっているそうだ。J-リーグは、J-リーグの試合をインターネット上で配信する10年契約をUKの会社と結んだ。その額は2千億円であるが、実際にどれだけ有償でネットでサッカーの試合をみてくれるかによって採算が取れるかどうかが左右されるそうだ。現在有償でネットで試合を見ている人は日本に22万人だそうだ。これを多いと見るか、少ないと見るか。まだ利益を出すために十分な市場規模とはいえない。心配はお金があってもなくても尽きぬもののようだ。

早速ミャンマーのコーチらしき人に声をかけた。実は保健・スポーツ省の役人で、卓球関係者ではなかった。いつもは首都ネーピドーにいるのだそうだ。ミャンマーのすべてのスポーツ連盟はいまだに旧都のヤンゴンで活動している。もう一人の引率者とも話してみた。彼はやはり保健・スポーツ省の役人で、本人は他の競技の関係者だそうだ。都市と都市を結ぶための自治体が主役のイベントのはずである。しかし国家政府がその仲介にはいり、かつ決定権を持つことも多い。これには二つの理由が考えられる。一つはスポーツ団体の内部構造である。日本でもそうであるが、スポーツ団体は強固なヒエラルキーを持つことが多く、国家レベルと地方とではその上下関係は明確である。国のスポーツ協会・連盟の協力なしで一都市や一地域のスポーツ組織がスポーツの国際大会を開催することは考えられない。ふたつ目の理由は、スポーツ連盟と政府との関係である。大半のスポーツ連盟は財政基盤がなく、その運営費用のほとんどを政府に頼っている。そのため政府が決めたことに反対や意見するような力関係にない。とはいえ、卓球コーチや卓球協会関係者以外の政府の役人が引率者として参加しているのは珍しいことで、例外的なことだ。スポーツ連盟の海外遠征の機会を、その目的は度外視して、政府官吏にまで対象を広げ、受益を分配しようというミャンマー独特の平等感覚と中央集権的性格のあらわれなのだろう。

ヒジャブ(ムスリムの女性が髪に被す布)をつけてパワフルなドライブを売っている女子選手が目をひいた。リオオリンピックのビーチバレーでは、肌を見せずヒジャブをつけたチームとビキニのチームの試合があり論争をよんだようだ。スポーツは誰のものでもない、国境、宗教、言語、人種や民族、障害を越えたみんなのものである。世界に貧困、格差や紛争があるように、スポーツをする機会は地球上に住む人々に平等に与えられているとはいえない。しかし、公正で差別を引き起こすことのないルールや環境をつくることによって、誰も置き去りにしない、ことが21世紀のスポーツの創造と社会的発展につながると信じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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