村上春樹著「辺境・近境」を聴いて、心に移ったこと

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村上春樹とカメラマンのアメリカ、日本、メキシコ、モンゴルそして中国のあまり知られざる風土や人々を訪ねる紀行記。

感想ではなく、ここではわたしの心に移った村上春樹の旅の記憶の断片のいくつかを書き記しておこう。

香川の中村うどん。養鶏場からうどん屋に転向した中村親子は、足でこねたうどんと出汁を、ちょっと見ではあるかどうかもわからない小さな店の中に放置している。それを馴染みの客が勝手にとって食べていく。「うまい」

メキシコの話は、中南米に土地勘のある私には懐かしく思えた。「どうしてメキシコに来たのか」とメキシコ人がいつも口にする質問をされたら。「メキシコ料理の本を出すためだ」と答えろ、そうすれば納得する、というアドバイスをもらう。ただそのあとで困ることは、うちのおばあちゃんの料理自慢が始まることだ。

メキシコでは、バンディットとよばれる盗賊たちが頻繁にあらわれ、警察官はバスの中で襲撃に備えて銃弾をこめて待ちぶせている。そんなことは誰も教えてくれなかった。スペイン人に滅ばされたアステカの悲劇が、いまだに繰り返されているチアパス州は、誇り高き人々の住む貧困地域である。しかし、そこでは飢えることはない。「こんにちは」といえば、だれもが、食べ物を分けてくれる。しかし、ニューヨークでは、「こんにちは」と言っても、「こんにちは」と返されるだけで、だれも食べ物を分けようとはしないことに気づかされるのだ。

ノモンハン事件は事件ではなく、戦争そのものだった。そこで拾ってきた銃弾は、ホテルに戻った著者を恐怖の世界のどん底へと落とし入れる。ひとりの夜に耐えかねた著者は、外側からしか鍵のかけられないホテルのカメラマンの部屋の扉を開け、その片隅に朝までうずくまる。

アメリカ横断の旅の途中で、ラジオの報道が町の牛や豚の値段ばかりを伝える話。(私が国連で、中国の地方の町でITを導入するプロジェクトと行ったときも、テレビで流す新しいプログラムの大半が、家畜や農産物の値段や、農業技術の紹介だった。)

神戸まで歩くと、まったく風景が変わっていて、昔の面影もなかった。それは、昔建物があった場所は震災で崩壊して空き地となり、昔空き地だった場所には新しい建物が立っていたからである。

旅をするときは、その土地の匂いや雰囲気を肌身に染み込ませる。帰国して1-2ヶ月経ってから、文章を書く。そのあいだ沈むべきものは沈み、浮かぶべきものは浮かんでくる。ちょうどいい時期がある。遅くなりすぎると忘れるほうが多くなる。旅行記を書くということは、小説家にとって、いい修行になる。

村上春樹は辺境の旅行記が好きである。

よく書かれた旅行記を読むことは、実際に旅行するよりもはるかにわかりやすいこともよくあります。しかし、今では、辺境というものが失くなってしまっている。いまは旅行記にとってあまりハッピーな時代ではないのかもしれない。

それが日常とどれだけ離れているのか、それとも近接しているのかを明らかにすること。それが旅行記の醍醐味ではないか。

(さて、私たちはどのように辺境と近境への旅行を楽しみましょうか。)

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