村上春樹著「職業としての小説家」を聴いて(わたしはなぜ海外に人生の場を移したのか?)
もっとも心に残った部分は、著者がバブル期の日本を捨てて、アメリカへと出て行くくだりである。日本のバブル期に、人気作家となった村上春樹に、羽振りのよい金満な仕事話が舞い込んでくる。しかしこれらの申し出に対して、村上春樹は違和感を覚え、退廃を憂う。
村上春樹は、子供の頃から英語の原書を読みたいと願い、英文と格闘を続けた結果、英語のテストの点数は良くならなかったが、英語で小説を読解できるようになった。村上春樹は翻訳も好きである。翻訳することで、違う作家の文体にふれ、その経験を自分の文体にも活かせる。とはいえ、それで、「村上春樹の文体は翻訳文である」「日本では通用しても、海外では通用しない」という類の批評をされることもあったという。
そこで、村上春樹はニューヨークに渡る決心をしたのだ。
そして英文に翻訳した自分の小説を片手に、一からでなおす。ベストセラーになったノルウェーの森のことも知られてはいたが、その英文の小説を読んだニューヨーカーの編集者に認められる。少しずつ、一歩ずつ、アメリカの読者に知られるようになり、ヨーロッパでも知られるようになり、海外で飛躍し、名声を得る稀有な日本人小説家となる。
バブル期の日本にあって、わたしは時計製造メーカーに勤めていた。
その頃の日本は、まじめに働いて給料を稼ぐよりも、不動産や株などの資産が生む利益のほうがずっと大きいようで、社会はいびつできな臭い活気でにぎわっていた。わたしは、そんなバブルに沸く日本社会には自分の未来を重ねられず、会社を辞め、青年海外協力隊の調整員としてカリブ海のドミニカ共和国に渡った。村上春樹がアメリカに飛び出したときに、わたしも似たような決断をし、人生の舞台を海外に移していたのだ。これは偶然というよりは、必然と言うべきものではないだろうか。人生は小説よりも面白い、かも。
本のもくじ
- 小説家は寛容な人種なのか
- 小説家になった頃
- 文学賞について
- オリジナリティについて
- さて、なにを書けばいいのか?
- 時間を味方につけるー長編小説を書くこと
- どこまでも個人的でフィジカルな営み
- 学校について
- どんな人物を登場させようか?
- 誰のために書くのか?
- 海外へ出て行く。新しいフロンティア
- 物語のあるところー河合隼雄先生の思い出
あとがき