Diary
コロナ陽性人間 二日目 保健所からの連絡待ち
調子は変わらない。これまで2週間以内に会った人たちには全員連絡して、みんな何の症状もでていないことを確かめた。PCR検査をしている人、二回目のワクチン接種を済ませた人もいる。濃厚接触者の基準に合う人もいないようだ。
保健所からの連絡はない。
喉の調子は変わらない。久しぶりに音楽を聴いて、歌を口ずさんでみた。かなり咳が出る。
のど用のドロップをなめたり、のどスプレーを何度も喉の奥にかけているが、状態に変化はない。
テレビを見ると、重症化したケースの話が頻繁に出て、医療崩壊を叫んでいる。
自宅療養といっても、薬さえないのでは、単に自宅待機と同じ。療養とはいえない。
12時30分、知人の医者に家族が連絡してくれて、保険証を送信する。
親切な女医さんが、電話でリモート診断をしてくれ、薬を送ってくれるという。これほどありがたいことがあろうか。「リモートの薬」は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようにお釈迦さまの差し出した救いのようだ。でも、この救いの糸は、おそらく何百何千のCorona患者の重みには耐えきれないものなのだろう。医療逼迫…
午後5時56分。薬局から電話があった。住所の確認と、ドアの前に薬を置くが、その時に、配達人と顔を合わせることもできないという説明。明日の何時になるかはわからないとのこと。
保健所からの連絡は今日もなかった。医療崩壊の前に、行政の方に崩壊のサインが出ているようだ。
Corona Positive Man コロナ陽性人間になる
8月11日、6時半。目が覚めて、まだ喉の調子が良くないことを確認。
スマホには、ショートメールは来ていない。自分で結果確認サイトにアクセス。結果が出ていた。陰性でありますように!
『陽性』『Positive』
もう一度、見る。 『陽性』『Positive』
名前を確認する。私の名前と生年月日。確かに私だ。

そうか。Positiveか。Negativeであることを求められるこの世界で、ついにPositive側の人間になったようだ。
ミャンマーで、社会から疎外されていた、HIV-Positiveグループを結成して、彼ら・彼女らのパーフォーマンスに飛び入り参加して「乾杯」を熱唱したことや、自宅の庭でBBQパーティを開いて一緒に踊ったことを思い出す。
Corona Positiveって、どんな世界だろう。最近、当時一緒に仕事したミャンマーの国連の同僚が二人Coronaで亡くなったばかりだ。パキスタンの国連の同僚は家族でコロナに罹って、無事に完治したとFacebookで報告していた。
上のアパートにいる妻にLINEで「陽性」だったと報告。「すまない。面倒をかける。」「なにか食べたい物がある?」「お粥と味噌汁が食べたい」
9時半、説明書にあった、藤沢コロナ受診相談センターに電話。陽性だったことを伝え、今後の対応を尋ねる。若い娘さんの声はやさしく、親切だった。どの医療機関でもみられなかった、初めての温かい対応。私のように咳とかの症状があるという場合は、担当の医療機関から電話の聞き取りがあって、保健所に通知するとのこと。そのあと、保健所がその日のうちに本人に連絡してくるのだそうだ。最近は遅れることもあるとのこと。家族は住む所が違えば、本人だけが自宅療養することになる。発症あるいは検査してから10日間の自宅療養が求められ、症状がなければ、それからは普通の人になるという。「えっ?それだけでいいの?」「陰性証明とかなくてもいいんですか?」「コロナで陰性になるには、一ヶ月とか時間がかかります。」「発症してから、10日間で感染力はなくなる」という国の基準があって、それに準じた対応とのこと。確かに、紹介された、「新型コロナウイルス感染症 自宅宿泊療養のしおり」にはそのように説明されている。

9時59分、川崎検査クリニックから電話。医療従事者と思われる男性が「田中さんですか。陽性という結果が出ております」「はい、知っています」
コロナの症状について問われる。2週間前の第一回ワクチン接種のあとで発熱があったこと。先週から喉が詰まり、咳の症状が続いていることなどを説明。「この結果については、これから保健所に報告します。保健所から連絡がありますのでそれをお待ちください」
それから、ずっと、保健所の電話連絡を待っていた。が、何も連絡は来ないまま、日が暮れて、真夜中になった。
コロナ、PCR検査を受ける
8月10日、オリンピックが終わって二日目の火曜日の朝、喉の奥が詰まった感触と、時折出る咳。先週から続いている状態が変わる気配が今朝もない。
PCR検査キットを購入しようとネットで調べたが、コロナの症状がある人は購入出来ないと説明書きがついている。本末転倒じゃないか。
藤沢市のコロナ相談センターに電話する。湘南台で、コロナ関係を扱っている医療機関はある。そこはもうすぐ盆休みに入るから、予約できるかどうかはわからないとのこと。その紹介のあった湘南藤沢心臓血管クリニックに電話する。一週間ほど喉が詰まり咳が出る状態が続いていることを説明して診断を依頼。すると「一番早くて、盆休み開けの8月16日になります」「発熱がないと、医師がPCR検査を指示するかどうかわかりません。自費のPCR検査は当院では2万4千X百円となります」
家から一番近いのは、藤沢駅前PCR検査センターだ。通常5千円、当日検査だと1万円。小田急線で家から17分の距離。公共交通機関を使うのは気が引けるが。車もないし。午前10時過ぎにセンターに行き、予約できた時間は、17:15から17:30。遅れたら予約は取り消される。
17:10にセンター着。スマホで登録。コロナが疑われる症状があるかないか、という質問に「ある」と答える。名前を呼ばれて、中に入る。体温は「36.5度」。当日検査一万円と陰性証明書5千円を購入。
手渡されたコロナ検査用のキットにストローで唾液を流し込んでいく。思ったより難しい。唾液は簡単に出てこないし、ストローの中を通すより外から滴るほうが多い気がする。10分ぐらいがんばって、やっと必要量を確保。窓口に出して、PCR検査の結果の確認方法を示す説明書をもらう。
夜11時になった。連絡メールは来ない。
12時になった。連絡メールは来ない。
オンラインで直接システムにアクセスしたが、結果がまだ出ていない。
午前2時、結果はまだ出ていない。何度もアクセスしすぎて、システムから拒否される。

ジュニアスポーツ、アジア交流大会
東京都がアジアの青少年のスポーツ交流を通じた相互理解を深めようとこの10年ほど交流大会を実施している。バトミントンと柔道で始まったこのプログラムは、3年前からバトミントンと卓球種目で実施されている。国レベルではなく、東京という都市とアジアの都市を結ぶという地域性を持ち、東京オリンピック・パラリンピックが決まる以前から始まったプログラムということで2020年以降も継続されることが期待される。
参加都市は、シンガポール、台北、トムスク(ロシア)、ウランバートル、ヤンゴン、バンコク、デリ、ハノイ、香港、ジャカルタ、クアラルンプール、マニラ、ソウルなど各国の首都がリストアップされている。
東日本大震災で被災した福島、宮城、岩手県からの青少年も招待されている。そして東京2チームと茨城県チームがホーム代表である。アジアの各都市の16歳未満の少年少女を迎えて8月23日から29日までスポーツを通じた交流を楽しむことになる。
車いすや義足つけた障害者アスリートも多数参加していた。片腕が肩から全く無い少女や、知的障害とみられる少年も顔をくしゃくしゃにしながらボールをひたすら追い続けていた。
近藤欽二氏の指導者研修は、映像を使った効果的なものだった。すべて日本語である。これをアジア各都市からやってきたコーチ一人に対し、一人の通訳がついて解説する。
田中さんというスポーツプロモーションという会社の方が、通訳はみんなその国出身で日本語が堪能な人たちを集めたと説明してくれた。最近は各国から日本に来て仕事や勉強、あるいは家庭をもって長期滞在している人が増えている。人材派遣会社もそこに目をつけて、正式な通訳として活用しているとのこと。この会社は90%以上サッカーをあつかっているそうだ。J-リーグは、J-リーグの試合をインターネット上で配信する10年契約をUKの会社と結んだ。その額は2千億円であるが、実際にどれだけ有償でネットでサッカーの試合をみてくれるかによって採算が取れるかどうかが左右されるそうだ。現在有償でネットで試合を見ている人は日本に22万人だそうだ。これを多いと見るか、少ないと見るか。まだ利益を出すために十分な市場規模とはいえない。心配はお金があってもなくても尽きぬもののようだ。
早速ミャンマーのコーチらしき人に声をかけた。実は保健・スポーツ省の役人で、卓球関係者ではなかった。いつもは首都ネーピドーにいるのだそうだ。ミャンマーのすべてのスポーツ連盟はいまだに旧都のヤンゴンで活動している。もう一人の引率者とも話してみた。彼はやはり保健・スポーツ省の役人で、本人は他の競技の関係者だそうだ。都市と都市を結ぶための自治体が主役のイベントのはずである。しかし国家政府がその仲介にはいり、かつ決定権を持つことも多い。これには二つの理由が考えられる。一つはスポーツ団体の内部構造である。日本でもそうであるが、スポーツ団体は強固なヒエラルキーを持つことが多く、国家レベルと地方とではその上下関係は明確である。国のスポーツ協会・連盟の協力なしで一都市や一地域のスポーツ組織がスポーツの国際大会を開催することは考えられない。ふたつ目の理由は、スポーツ連盟と政府との関係である。大半のスポーツ連盟は財政基盤がなく、その運営費用のほとんどを政府に頼っている。そのため政府が決めたことに反対や意見するような力関係にない。とはいえ、卓球コーチや卓球協会関係者以外の政府の役人が引率者として参加しているのは珍しいことで、例外的なことだ。スポーツ連盟の海外遠征の機会を、その目的は度外視して、政府官吏にまで対象を広げ、受益を分配しようというミャンマー独特の平等感覚と中央集権的性格のあらわれなのだろう。
ヒジャブ(ムスリムの女性が髪に被す布)をつけてパワフルなドライブを売っている女子選手が目をひいた。リオオリンピックのビーチバレーでは、肌を見せずヒジャブをつけたチームとビキニのチームの試合があり論争をよんだようだ。スポーツは誰のものでもない、国境、宗教、言語、人種や民族、障害を越えたみんなのものである。世界に貧困、格差や紛争があるように、スポーツをする機会は地球上に住む人々に平等に与えられているとはいえない。しかし、公正で差別を引き起こすことのないルールや環境をつくることによって、誰も置き去りにしない、ことが21世紀のスポーツの創造と社会的発展につながると信じる。
10月18日 Jazz
New York勤務になって最後の週末になるかもしれない。土曜日はJazzの歌のレッスン。天野先生との個人レッスンも今年はこれが最後になる。約一ヶ月ほど、短いが相当に密度の濃いトレーニングだった。自分の地声を発掘する作業。呼吸法で腹の底を深く堀りさげる。丹田を耕して、自分のオーガニックな生の声を収穫するという有気農業のようだ。Jazzというのは至高の自己表現のなのだろう。自己表現するには自分を知らなくてはならない。先生には自分の地声が相当に低い太い声だということを教えてもらった。野太い低音をあたりにしみ渡るように発声できると歌のクオリティが格段にあがる。それだけでJazzって感じがでてくる。
もっと凄いことは、会話をする自分の声をこれまでよりも低音の声域に変えられたことだ。天野先生からは、低い声で話すようにと勧められた。低い声の方が、聴く方もわかりやすく、より説得力がでるという。しかも、女性にとっても男性の低い声により魅せられるというのだからいいこと尽くめではないか。
そこで、これからの日常生活で守るべきことは、次の三点:
- 背筋を伸ばし、姿勢をまっすぐにして座る。歩く。
- お腹で呼吸する。
- 低い声域を使って話す。落ち着いて、感情の起伏を声に出さないこと。
土曜日に、Something JAZZというEast 52ndのお店で天野昇子先生の歌を聴きに行く。ピアノは奈良はる子さん、BassがMurry. ドラムは飛び入りのビジネスマン。ジャズクラスの先輩の吉田氏が、一曲歌った。ジャズのバンドというのは、個性の集まりで自由度が高いだけに、感性や息が合うことが重要らしい。慣れないメンバーとうまくかみ合わないと相当に疲れて苦心するようだ。天野先生は、Autumn Leavesを斬新なアレンジで歌った。私の最初の持ち歌で、スローな歌い方を習ったが、アップテンポな感じで、まったく違った曲感になっていた。ジャズだねー。
RIKI(East45th, 3rd AveとLexの間)というレストランで打ち上げ。鹿児島の焼酎をボトルで2本空けた。RIKIはNo Tipポリシーのお店で、私がニューヨークで一番気に入って行きつけているお店だ。店長は昔卓球をやっていたことがある。6人で思いっきり食べて、US$305だった。お勧めです。
10月16日 林住期
ブログで日記を綴る。そんな時代の雰囲気。昔書いた日記は、みんな段ボール箱に入って、マニラの倉庫で眠っている。ブログならどんなに昔でもそのサイトで待っていて、どこからでもアクセスすることができる。写真も一緒に置いておける。空気よりも軽く、気軽にインターネットに無料で置けるのですこぶる便利だ。
あまり秘密は書けないかも。しかし、折角山のように書き溜めた日記を誰の目にも触れさせずに燃やしてしまう海辺のカフカのような話もあるし。公開されると後悔するようなことは、書かなくていいのです。忘れようとしても忘れなれないことは、自分の胸に刻まれていればそれで十分以上でしょう。
林住期は、人生を4つのステージに分ける古代インドの概念で、人生の第3ステージにあたる。最初は学生期、師についてヴェーダを学ぶことが人生の中心目的。次が家住期。家庭を持ち、自分の回りの人々のために働いて、子育てをやり遂げる。孫ができるようになったら、林住期の始まりだ。家を出て、山にこもる。自然の中で、自分が生きるための自然な生活を営む。五木寛之は、この林住期、現在で50-75歳の年齢層の人々が社会の束縛を離れ、自分のために生きる時期だという。同感である。私の林住期は、幸せを開発することを道楽としたい。孤児の幼子たちが学生期を過ごせる学び舎、学園をつくりたい。この学園は、基本的に公教育以外の時間をすべて使っての課外授業を行うことを目的とする。スポーツ、芸術、音楽、舞踊、映画、IT, 文学、料理、等々、少なくとも一つか二つの分野で練習及び学習三昧させて、殊技能を持たせる。その分野で、ナショナルチャンピオンになれるように育てたい。この学園を卒業すると、子供たちも若者となり、自分の家住期に入っていく。彼ら、彼女たちは、孤児の後輩たちの親代わりとなり、自分の収入の一定比率を学園に仕送りする責任を負う。同時に卒業生は、学園の株を持つオーナーとなり、その運営を徐々に任されることになる。順調にいけば、第2、第3、第百の孤児の学園をいろんな国でチェーン展開できるはずだ。
70代も後半になると、最後の遊行期にいたる。すべてを捨て去って天涯孤独な人生を送ることがその本質らしい。すべての強欲、煩悩が消えて、天命を待つのみである。
私は、人生の始めに天涯孤独になった子供たちに、学習三昧できる学生期と与えることを遊行としたい。そんなことを50歳になってから考え続け、いまや54歳となった。
その思いは変わらない。早期退職か、あるいは仕事をなんとか見つけて、資金をもうしばらく稼ぎながら、同志を見つけてプロジェクトを始めたいと思う。
私は、ミャンマーでこの孤児学園を始めようと考えている。30年前に青年海外協力隊員としてコーチしていたペルーでも、卓球仲間と一緒にスポーツを中心に幸せ開発を始めたい。ブータン王国は幸せ開発の原点の国。近いうちに再訪して、幸せエネルギーの源流を探ってみたい。