Movie
10月24日 Edge of Tomorrow ゲーム的人生劇場
NYからついに旅立つ。
飛行機の中で映画を見る。Edge of Tomorrow (Tom Cruise主演)は桜塚ひろし氏の小説・漫画を題材にしたもの。Alienとの戦いで、死んだらまた時間が前に戻って同じ状況を何度でも繰り返し体験できるという設定だ。何百回も死んで、同じストーリーに何百回も繰り返し挑戦を続けることで、このゲームをついにクリアーするのだ。こうして書くうちに、ははあー、著者はコンピューターゲームの中に住む登場人物たちのストーリーを描いたのだと考えると合点がゆく。映画ではタマゴッチのように主人公がゲームを繰り返しながら確実に成長していく過程が描写される。何度も挑戦を重ねるにつれて相手の動きを覚え、自分の操縦技術も高度になって、最初の時とは格段に成長、進化していくのだ。ゲームの規則で、死んでも蘇られなくなる非常事態も想定されている。これは、ある登場人物をゲームから完全に消し去るということが可能なゲームになっているのか。輸血されるとゲームを二度とできなくなるという設定は、(コンピューター)ウイルスに侵されることがあるということなのだろうか。主人公がalienをついに倒したときに、そのパワーを再投入されて生き返る力を回復する。このステージをついに征服したためか、再開時のステージが変わる。主人公は次元の違う場所から始めることとなる。
ただこのゲームの繰り返しが人生そのものという状態は精神的には耐えられないものだ。痛みも常にある。殺される時の恐怖、体を引き裂かれる激痛、これを何百回も繰り返そうなどとだれが思うがろうか。常に戦って死と向き合っていくのはつらい。
以前に毎日寝ると自分の記憶をすべて失う女性が主人公の映画を見た。朝起きるとまず、フィルムを見るようにという説明書きを読まされる。そこで自分が誰なのか。これから会う人が誰であるか、自分との関係を知らされる。そして、そのフィルムの記録を自分の記憶として認識してから、新たな一日を始めるのだ。
この映画は、それとは逆のパターンである。自分以外のすべての人間が自分の経験した彼らの未來の記憶を知らないのだ。だから、主人公が必要な人にその記憶を毎回説明しなければならない。これを何百回も繰り返し行う。その中で自分だけは実戦体験を反復して経験し、修正とステップアップを繰り返し、自分がそのステージで生き残れる実力と知恵を身につけてゆく。ステージの中での自らの死が、Game OffとGame Onのスウィッチとなる。その間は記憶がない。少なくとも自分の記憶の中では、スウィッチはOffとOnが同時にくる。
こんな設定はあり得ないことだと、最初は思っていた。しかし、それは思い違いだった。世界中の大半の人が、とくに子供たちがこの状況を毎日疑似体験している。コンピューター、スマホ、ゲーム機を通じて、ゲームと言う形で。もし、同じ状況と状態で、何度でも同じシナリオにチャレンジすることが許されるなら、誰であろうとも、初めての時よりもずっとより良い結果を出せるようになるものだ。実際に、私の子供らも私よりもずっと楽に、実に見事に各ゲームのステージを主人公とともにクリアしていくようになっている。朝から晩まで、何百回も同じゲームをやり続けた成果である。
学習効果というものが、人生にあるとすれば、如何なる結果をもたらすのだろうか。このEdge of Tomorrowが一つの答えを提示してくれているようだ。仏教界で提唱される輪廻転生も、記憶はなくなっても、その業(カルマ)を受け継いでゆく、一つの魂の物語なのだろう。ダライラマのように生まれ変わりながら、一貫した目的を持って同じ魂のそれぞれの人生を全うしてゆく。この現世にもEdge of Tomorrowの発想の原点がちりばめられているようだ。
If we can do it all again、tell me, could we? would we? (The Way We Wereの歌詞)
Are there anything that you think, you could have done differently? (Interviewによくある質問)
It is obvious that anyone can improve and do better than the first time, if given one more chance, and again and again with the same condition including your age.