林住期(50~74歳)は人生の黄金期?
林住期って何だろう?
五木寛之さんの「蓮如」を読んで、御文の誕生と妻の死に面して大泣きする人間らしい情のかたまりであることをためらわない生き方に共感を覚えた。そして50歳を迎えた頃に五木さん著の「林住期」と出会った。人生50年と舞った信長の時代から太平洋戦争の頃まで、日本人の寿命は50年だった。今や、平均寿命は80歳を越え、100歳以上も珍しくはなくなった。そう、これからは人生100年時代になるのだろう。
人生を起承転結、春夏秋冬のように4つに分ける考え方が、古代インドにあったそーな。人生100年とするなら、1-24が「学生期」25-49が「家住期」50-74が「林住期」75-100が「遊行期」である。
学生期に人生の準備をして、家住期に勤務を果たし、林住期で自分のために人生を使い、遊行期で余生を楽しくすごす。家住期において、国家社会・家族などに対する責務を果たして、その後の暮らしが成り立つように頑張れば、林住期では、自分の人生の目的・夢・やりたいことを中心に生きる、いわば人生の黄金期、飛翔(ジャンプ)を可能にする、と五木さんはブッダに代わって説くのである。
34歳にして国連に入り、49歳になった私は、その頃ミャンマーにいて、14万人の命を奪ったサイクロン・ナルギスからの復興支援を行っていた。まだ、子どもが学生であり、経済的にもゆとりもなく、家住期の責務を果たしきってはいなかった。かといって、このままでは、林住期の人生を謳歌することはできない。55歳になったら、ミャンマーで孤児院をつくって、スポーツを教えてチャンピオンを育てよう。そのための準備を始めなくては。そんなことを考えていた。
鹿児島の南さつま市の津貫という過疎の村が私の故郷である。国連を早めに退職するきっかけの一つは、父の他界と母の認知症だった。息子が国連で働くことを喜んでいた両親への孝行もそろそろ形を変えていい時期にきていた。4人の子供らも大学を卒業した。私は、日本に帰国して、子供らと交代するように、大学院に入って、久しぶりに、キャンパスライフとやらをやってみた。卓球を再開し、九十九というクラブに入って、50代の試合に出場するようになった。ペルーに30年ぶりに招かれて、ナショナルチームのコーチとして、パンアメリカ大会とボリバリアーノ大会にも参加した。日本知的障がい者卓球連盟のコーチをほぼボランティアで始めて、数々の国際大会とアジア選手権や世界選手権も経験することができた。
ミャンマーの孤児院もいくつか訪問したが、結局、障がい児センターで、スポーツを導入するプロジェクトを立ち上げることとなった。
それでも、2-3年の間は、自分が有意義な人生を送っていないのではないか。また仕事を見つけて働くのが、あたりまえではないか。などという疑念が、常に頭の中をウロウロ歩き回っていた。
有言実行型をめざして一つだけ宣言したことがあった。それは「歳を取るのをやめる」である。
私は、国連という職場のなかで、常に若く、青く、軽く、見られていた。少なくともそう感じたし、そういう反応ばかりが、ネガティブに私には伝わってきた。そこで思いついたのが、髭を生やすこと。とにかく年長に見られたい。その一心だった。林住期に入った今、職場にも復帰する気がなく、自分の等身大の人生を歩むことにしたのだ。だったら、歳を取る必要もないし、取るだけ損だ。というわけで、歳については、進む針を凍結することにした。
今のところ、その成果は上がっている。ほぼなくなりかけていた前髪が少し戻ってきた。筋肉もついた。人格は、相変わらず、青二才だが、そんな大人になれないでいる自分に、平気になってきた。
林住期を楽しむ準備がやっとできたようだ。
玉手箱を開けないように。
四住期は「しじゅうき」と読みます。古代インドの社会的な規範を記した聖典「マヌ法典」により、四住期という考え方は生まれました。人生を、学生期(がくしょうき)・家住期(かじゅうき)・林住期(りんじゅうき)・遊行期(ゆぎょうき)の4つにわけて、それぞれのステージにおける規範に即した生き方をすることで、幸せな人生を送れるとされています。