月別: 1月 2022
人間の夢「より速く、より高く、より強く」と技術の進歩 (スーパーマンは人か、人でなしか?)
人間は、技術の進歩によって、より速く移動でき、より高く空を飛び、より強い破壊力を持つようになった。しかしながら、人間のホントの夢は、人工の機械を使ってこれらを達成するのではなく、スーパーマンになることなのだろう。スーパーマンが人間であるかどうかは、おそらく、その問いすら無意味なことだろう。人間の夢には続きがあって、スーパーマンがパーフェクトな人間(ヒューマニティ)の精神を持つことである。スーパーマン映画は、このパーフェクトな人間の精神を持つことの難しさを伝えることにより力を注いでいるように思われる。
「より速く(Citius)、より高く(Altius)、より強く(Fortius)」というオリンピックのモットーは、オリンピック・ムーブメントに所属するすべての者へのIOCからのメッセージであり、オリンピック精神に基いて研鑽することを呼びかけたものである(日本オリンピック委員会)[i]。
【人力の夢】人間は空を飛ぶ翼があればと願い、飛行機を発明した。しかるに、スポーツの世界では、今でも人々は走り高跳びや走り幅跳びで世界記録を数センチ伸ばすために、たゆまぬ努力を重ねている。100メートル競争で10秒を切り、0.01秒を縮めることに一喜一憂している。夏季オリンピックには、身につけるものや用具の少ない水泳競技から、走力、跳躍力または砲丸や槍などの投擲力を競う陸上競技や重量挙げ、対人で行う格闘技やゲーム性の高い球技、そして用具を使った速さを競う自転車および正確さを競う射撃やアーチェリーなど、多様な競技が存在する。冬季オリンピックのスケートやスキーを含め、そこに共通する基本原則は(射撃と馬術を除き)すべて競技が人力を動力として行うことをルール・原則としていることである。
【人力と技術力】100m競争の最も古い公認世界記録は1912年の10秒6である。現在の世界記録は2009年にウサイン・ボルト選手が記録した9秒58であり、およそ100年で1秒(約10%)縮めたことになる。他方、1903年のライト兄弟の初飛行は時速約11 kmだった。これは人間の最速速度の36 km(100mを10秒)より遅い。しかし、飛行機は驚異的な発達を遂げ、1960 年代において、すでに時速3千kmを超える戦闘機が出現している。スポーツの記録更新に貢献する技術といえば、例えば、1970年代まで車いすマラソン競技においては生活用の車いすを使用しており、当然のことながら、オリンピックのマラソン選手よりも遅かった。しかし、車いす製造の技術の進歩によって、1980年のボストンマラソンで1時間55分00秒という記録が出て、健常者の世界記録を一気に抜いてしまう。2021年には大分国際で1時間17分47秒という車いすマラソンの世界記録が生まれている。義足の走り幅跳びジャンパーとして話題になったドイツのラザフォード選手は、義足を使っての跳躍が公平性に疑問があるとされて、金メダルの可能性があった東京オリンピックへの道を閉ざされた。国際パラリンピック委員会はスポーツ用具ポリシーとして、環境や人体への安全性の確認、多数のアスリートが容易に入手できること、そしてスポーツパーフォーマンスが身体能力によるものでありテクノロジーや用具によるものではないこと等を挙げている。とはいえ、人間の筋力の有限性にとらわれない補助具を使ったパラリンピック選手の記録は、たとえ動力が人力であるにしても、オリンピック選手に比べると、まだまだ伸びしろがありそうだ。それでも、そのもたらす結果は、弓やラケットやアイアンを使った程度の違いにとどまるのだろう。ロケット燃料を使った飛行機や核兵器の競争とは全く異なるもの。人間が内部に宿す自然の法則に基づいた、人間としての限度を超えない有限なもの。
【より人間的に】オリンピックやパラリンピックは人間社会の最大関心事の一つである。それは、たとえそれが数センチ、コンマ数秒の微微とした進歩であろうとも、人間が人力に固執し、人間の身体能力と精神力をもって到達しえる生物学的能力の限界に挑戦し続けていく意志を強く持っていることの現れでもある。人間の身体の成長や発達は、人間という生物の有限性から逃れることはできない、そしてそれゆえに、地球の有限性を脅かすものともなり得ない。スポーツは人間の内部にある人間的自然を愛し、鍛錬し、成長させることを手段かつ目的とするものである。オリンピックの金メダリストでもあるドイツの哲学者ハンス・レンク(1985)によると、クーベルタンを始め著名な哲学者たちが「スポーツの記録には自然法則的意味がある」と考えていたという。そして、レンクは「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーも、限界なき上昇と記録崇拝を意味するものならば、「人を非人道的なことへと導き、誘惑する危険に陥る」と警告し、オリンピックのモットーには「より人間的に」という目標が加えられるべきだと主張している(関根, 2019)。非人道的な手段によって生まれた記録は、もはや人間の限界を広げるものではなく、人間の境界を超えた非人間によるものにすぎないということなのだろう。
スーパーマンが、オリンピックに出られないことは、考えなくてもわかることだが。精神的なところで非人間的になったスーパーマンは、もはや「ひと(人)でなし」と呼ばれる存在となって、スーパーマンに滅ぼされる悪役として映画に登場することになるようだ。
[i] JOC – オリンピズム | オリンピック憲章(https://www.joc.or.jp/olympism/charter)アクセス2022年 1月 20日
Lenk, Hans. (1985). Die achte Kunst Leistungssport-Breitensport. (ハンスレンク. 畑孝幸, 関根正美(訳) (2017) 「スポーツと教養の臨界」不昧堂出版)
関根正美. (2019). オリンピックの哲学的人間学 : より速く、より高く、より強く、より人間的に. オリンピックスポーツ文化研究 No. 4, 91─ 100.
オリンピズムと人間の進歩
- クーベルタンの理想とトインビーの人類史観
「近代オリンピックの父」といわれるピエール・ド・クーベルタンは、フランスの敗戦の沈滞から立ち上がるべく教育改革を目指す青年だった。イギリスのパブリックスクールにおけるスポーツの役割に感銘を受けたクーベルタンは、スポーツ教育の理想の形として「古代オリンピックの復活」を唱えるようになり、1894年に国際オリンピック委員会(IOC)を創設し、1896年に第一回アテネ大会を開催するにいたる[i]。
クーベルタンがオリンピックを再興しようとした根本動機は「スポーツを通じて人間を変革すること」にあり、それは単なる「スポーツの祭典」ではなく、精神の発達を願う芸術や文化を融合したものだった[ii]。オリンピズムはそのようなクーベルタンの考えを反映するものであり、その根本原則として以下のようなことを挙げている。(オリンピック憲章より抜粋)
1.オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、 良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。
2. オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである
さて、英国の歴史家トインビー(1948)は、人類が誕生してから「何らかの肉体的あるいは精神的進歩があったと想像すべきいかなる保証もない」とその著書で述べている。彼によると「人間は非人間的自然を処理すること」は得意であるが、自分自身を含む「人間の内部にある人間的自然を処理する」ことには不得意だという。そのため、人類誕生以来現代にいたるまで「非人間的世界」における顕著な進歩と、人間の内部の「精神的世界」における未成長または非進歩という、トインビーのいうところの著しい不釣り合いによる「この地上における人間生活の一大悲劇」が進行中であり、地球温暖化や紛争や貧困は、その人間の業ともいうべき「悲劇」の産物と考えられる。
クーベルタンが理想としたように、はたしてスポーツは、「人間の内部にある人間的自然」のコントロール能力を発達させ、この人間の精神的世界における停滞を打破することに貢献することができるのだろうか。
[i] JOC – オリンピズム | クーベルタンとオリンピズム(https://www.joc.or.jp › olympism › Coubertin) アクセス2022年1月25日
[ii] オリンピック基礎知識|オリンピックスポーツ文化研究所 (nittai.ac.jp) アクセス 2022年1月20日
Toyinbee, Arnold J. (1948). Civilization on Trial. (アーノルド. J. トインビー. 深瀬基寛(訳) (1966). 「試練に立つ文明」 社会思想社)
2021年を振り返って
2021年一月。東京パラリンピックが目前となってくる中、ある選手の親からの手紙を理由に、知的障がい者卓球連盟のコーチ業務からはずされる。コンプライアンス委員会による調査が開始される。
コロナ禍にあって、卓球の練習の中心が、湘南台の家の近くにある岸田卓球クラブに完全に移行する。早朝のサーブを中心に一人でする多球練習を組合せて、プラスチックのボールの飛び方の感覚を身につけるように努める。練習する人も場所も減る中で、MD相模の橘川さんが練習に誘ってくれるようになり、週に2回ほど、主に午前中に練習するようになった。
2月5日。ペルー体育庁とペルー卓球連盟との共催で、Zoomを使った「障がい者のためのスポーツ」セミナーの講義を行う(スペイン語を使用)。地球の裏側のペルー国の、スポーツ関係者ら多数の参加者と直接、意見交換を行う。
2月16日と17日。ミャンマー日本人学校の生徒たちに、Zoomでゲスト講師として課外授業を実施する。小学生向けには「パラリンピック:障がい者卓球の世界。ミャンマーの障がいを持つ子供たちと卓球しよう」。中学生に対しては、「自分探し、人生探し:初心忘るべからず」という内容で話す。ヤンゴンと日本に分散して、いつ教室で会えるかもわからない子供たちと先生たち。それぞれが真剣にミャンマーの状況と向かい合っている。不思議な心と心の出会い。
3月2日。東京選手権大会がキャンセルになった代りに、東京卓球連盟が、東京優勝大会という年代別大会を東京所属の選手を対象に開催する。50代に参加した私は、準々決勝でカットの斎藤選手に3-1で逆転勝利、準決勝で(前回大会で逆転負けした)森園選手に3-0で雪辱できた。決勝は、右ペン表の名手、野中選手との対戦となる。以前0-3で敗れたことがある。サーブの回転やタイミングに合わせることができなかった記憶があり、今回はバックプッシュでレシーブから攻めていく。逆に私のサーブが効いて3-1の逆転勝利。この大会全体を見渡すと、勝敗を分けたのは、Covid-19の時期にどのように過ごしたかの違い。練習できていた人が、その成果をみせ、練習できなかった人が、その対価を払った。
4月23日。日本スポーツ仲裁機構のパネルが、最終的な仲裁判断を下す。私の申立てが全面的に認められる画期的なものとなる。

5月9日。SDGsとパラリンピックについて、友人の新井和雄ガバナーより招聘を受け、茨城ロータリークラブで講演。貧困削減や人道支援ではなく、なぜスポーツ支援なのか、という質問または疑問が出される。スポーツや文化は人間の権利であり、幸福の種なのだ。
5月18日。国連時代の環境及びNGO関連プロジェクトの現場経験から、外務省国際協力局気候変動課の担当する「脱炭素技術海外展開イニシアティブ」の外部審査委員会の委員に任じられ、その第一回会合に参加する。
5月23日。藤沢卓球選手権大会。チーム戦で優勝。
6月6日。クラブ選手権大会、東京予選。ダブルスが不調で苦戦。決定戦は、卓楓会。前回も敗れている強豪。今回は、八城選手が加わって、更に戦力増強している。1-2で、最後は椋ー八城戦と私と飯田選手。椋君がジュース・ジュースの大接戦で勝ち、私がなんとか勝利して代表権獲得。チーム戦ならではの総力戦の感動的な試合だった。
7月18日。全日本マスターズ東京予選会。順調に勝ち上がり、全勝で予選通過。
8月11日。PCR検査を10日に藤沢駅前で受ける。その結果が早朝に出る、結果は陽性であった。
8月17日。コロナ自宅療養が解除され、通常の生活に戻る。
8月28日。東京パラリンピックで卓球の知的障がいクラスにおいて、神奈川県鎌倉市在住の伊藤慎紀選手が銅メダルを獲得する。
9月11日。全日本卓球選手権大会の東京予選に出場。実業団や大学選手のプレーに接して、いい体験勉強になった。早稲田大学およびシチズン時計の後輩の応援。
10月8-10日。全日本卓球選手権大会マスターズの部(60歳以上)に参加。準々決勝で坂本選手に生まれて初めて勝利。準決勝でいつも練習している橘川さんに3-2の接戦で勝利。決勝は江浜選手。1ゲーム目を15-17、4ゲーム目を10-12で落とすも、3-2でど根性の勝利。全日本で初優勝を遂げる。
11月28日。初めて大阪マスターズ卓球大会に参加。50代の部で、第一シードにされる。50代の選手に勝ち抜き、決勝では、またも60代で年上である坂本選手との対戦。全日本の雪辱をかけてきた坂本選手に対して1-3の逆転負け。フォア前への鋭角なサーブ、回り込んでバックストレートのスマッシュ。どれをとっても精度が高く、かなりの練習量を感じる。東京選手権大会での対戦が楽しみ。
12月5日。中野卓球選手権大会、一般の部に参加。決勝まで進むことができた。準優勝。若い世代の卓球への適応力がついてきた。
12月19日。ブータン祭り。「ブータンのスポーツの未来」というZoom座談会で、「ハピネス・ファースト」のスポーツを目指すことを提案する。そして、「ハピネス(幸福量)を増やすためには、最も置き去りにされている障がいを持つ子供たちにスポーツを届けることが、一番効果的な方法である」という信念をもとに、これからもパラ卓球の支援活動を続けることを伝える。


“We Can” Project for Children with Disability
Table Tennis Academy in Yangon, have started “We Can” project in collaboration with Aye Myittar Center for Children with disability. The “We Can” project is the follow up to my initial sporting interventions with the Aye Myittar Center starting in 2019. So far, we have donated many used uniforms, some table tennis rackets, a hundred of used rubbers, table tennis balls and two table tennis tables to the center. We also introduced “Takkyu Volley”, which is an adopted game for children and people with severe disabilities.
It was in March, 2020, volunteers of YU Table Tennis Club joined this initiative to provide coaching support to those children of Aye Myittar Center.
Since then, Covid-19 has been preventing people from moving and most activities had become inactive. In addition, the security situation has also deteriorated.
Today, a hope has returned to the children with disability in Aye Myittar Center to have an access to opportunities to learn how to play table tennis thanks to the newly started Table Tennis Academy.
One coach and a player with disability from the Aye Myittar Center for children with disability has just started a weekly table tennis class at the Table Tennis Academy through “We Can” Project.
It is our sincere hope that the coach and the player will become the first role models to pave the way for other children with disabilities to enjoy sporting, table tennis, through the “We Can” project.



