スポーツ文化は、人間にとって「自然」なもの

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人類史上「肉体的・精神的進歩があったと想像すべき保証がない」というトインビーの指摘は、現代において誤りであると言えるかもしれない。なぜなら、オリンピック記録の漸進的な更新の他にも、生物にとって最も大事な指標の一つである寿命において、人類は20~35年という平均寿命から、1900年に先進国で40~50年程度に延び(ウィルモス, 2010)、2000年には世界の平均寿命が66.8年に達し、その後のわずか20年間で73.3年にまで延びているのである(WHO, 2021)。これは多分に医学の進歩と言えるが、寿命という人間の生物学的限界が著しく更新された事例と考えてよいのではなかろうか。他にも近年の貧困の削減と栄養状態の改善によって、人間の平均身長にも顕著な伸びが見られる。健康や身体機能に関するスポーツの効果は誰もが認めるところであり、人間の健康寿命の更新に対するスポーツの貢献が期待されている。

日本のスポーツ基本法(2011)は、その冒頭において「スポーツは、世界共通の人類の文化である」と宣言する。レンク(1985)は、『人間における「自然性」とは、「文化」のことである。まさにそれは「第二の自然」と呼ばれるものである。これはとりわけ、スポーツにあてはまる。』と述べている。人間(肉体)における生物学的自然が第一の自然であり、第二の自然である「文化」は主として人間の精神的世界に関わるものと考えるのが自然だろう。オリンピズムがフェアープレーや平和な文化・社会の構築という基本理念を掲げているにもかかわらず、営利主義、勝利至上主義、政治的利用などにスポーツが振り回されてきている実態は、古代オリンピックから近代オリンピックにいたるまで変わってはいない、おそらく深刻化している。

しかしながら、未来への希望がないかというと、そうでもないだろう。たとえば、古代オリンピックでは殺人は認められていなかったとはいえ、競技において多数の死傷者が出る危険は参加者も審判も承知の上であり、実際に多くの若者の生命が失われている。近代オリンピックにおいては、オリンピアンの競技における怪我はかなりの頻度で起こるとはいえ、死に至ることは稀有である。競技者の生命や安全の確保という倫理的基準・価値観を参加者も聴衆も共有するようになったのは、一つの前進といえるのだろう。

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