日: 2022-02-05

審判は神であるべきか? 技術革新でフェアープレーを守ろう。

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スポーツにおける審判は、裁判所の裁判官あるいはこの世の神のような絶対的権限を持ち、そのジャッジ(判断)は不可侵であり、最終的なものとされる。あとになって、判断ミスとわかっても、試合の結果が変わることはない。サッカーの反則、柔道の一本、フィギュアスケートの採点、テニスの線審等々、審判の判断は勝敗を左右し、不満や争いの原因となることが多い。近年になって映像による判定手段が加えられたことで、誤審やジャッジを巡る争いが減少したようだ。テニスは映像判断を求める制限付き権利を選手に与えることで、映像判断の権利の行使自体をゲームの一部として楽しむ空気すら生まれている。実際に、陸上や水泳のタイムやフェンシングの得点など、人間の目ではなく、科学技術に判定を任せている競技も少なくない。未来のスポーツにおいては、審判という神格化された人間の一存ではなく、適切な技術を駆使し、情報を公開して、ジャッジの透明化と共有化を行うことが、スポーツの倫理的基盤を強化し、フェアプレーを鼓舞し、公正さを維持することにつながるのではなかろうか。スポーツが「より人間的」であることを求めることと、その結果としての記録測定や勝敗のジャッジにおいて技術革新による高精度な正確さや人間的な恣意性・誤審の排除を求めることとは倫理的に矛盾せず、スポーツ界にフェアネス(公正さ)やクリーンネス(高潔さ)をもたらすものと考えるのだが、どうだろう。