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はじめに
2021年の東京オリ・パラ大会から2024年のパリ大会までのこの4年間は、私は自分の選手としての卓球中心で、コーチングからは遠のいている。ブータンへは卓球用具を贈り、障がい者卓球を含めサポートは続けているが、そもそも大半のアスリートにとって、そしてとくに途上国のスポーツ界にとって、オリンピックやパラリンピックは、あまりに遠い雲の上の存在なのである。その創設時には参加することに意義があると唱えていたオリンピックも、勝利至上主義が浸透し、今ではコマーシャリズムを優先するメガイベントとなり、独自に発展してきたパラリンピックもオリンピックと同化して熾烈な競争と各国がメダル争いに躍起となる世界へと変わりつつある。ロシアのドーピング問題やウクライナへの侵攻、そしてコロナによる中断・延期など、スポーツ界、国際社会そして地球規模の問題に翻弄され続けているオリンピック・パラリンピックは、実際にその基本理念である世界の平和と共生社会の実現に貢献し得る存在となりうるのだろうか。
ブータンとオリンピック
第4代国王が会長となってブータンオリンピック委員会が創設されたのは1983年のことである。翌1984年には、ロス・アンジェルスオリンピック大会のアーチェリー競技に6名(女3名、男3名)の選手が参加し、ブータン王国のオリンピックデビューが実現する。それからブータンはオリンピック・アーチェリー競技の常連となり、2024年パリ大会まで11回連続で参加を果たしている。現会長はジゲル・ウゲン・ワンチュク王弟殿下であり、2018年に王弟殿下はIOCメンバーに選出されている。
オリンピックやパラリンピックではQuotaと言われる出場資格権の分配システムが各競技で定められており、その大半の出場枠は、世界ランキングと五大陸の代表枠によって占められている。各国のNOCに割当があるわけではない。そこで、オリ・パラには出場国数を増やす手段として、招待やワイルドカードという推薦枠が各競技に設けられており、ブータンは国技ともいえるアーチェリーでこの推薦枠を獲得することが恒例となっている。事実、ブータンのアーチェリー競技力は相当に高いレベルにあり、2019年のアジア選手権では、Karma選手(女性)が実力でアジア代表枠を勝ち取り東京オリンピックに参加している。アーチェリー以外の競技では2012年のロンドン大会の女子10mエアライフル射撃競技に推薦枠で参加したクンザン・チョデンが最初であり、続くリオ大会(2016)と東京大会(2020)でも同競技にブータンの選手が推薦枠で参加している。東京大会においては、柔道で初めての推薦枠を与えられ男子60キロ級にガワン・ナムゲル選手が出場、水泳競技においても男子100m自由形でサンゲ・テンジン選手が推薦出場を果たしている。2024年パリ大会においては、アーチェリーと水泳に加えて、陸上競技においてブータンに推薦枠が与えられ、クンザン・ラモ選手が女子マラソンに出場し、完走を果たしている。
ブータンとパラリンピック
ブータンパラリンピック委員会が創設されたのは2017年のことであり、会長はユーフェルマ・チョーデン・ワンチュク王女殿下である。創設時から東京大会デビューを目指して積極的に活動し、東京大会には、砲丸投げの低身長クラス(F10)においてゲルシェン(男子)選手とチミデマ(女子)選手、そして男子のパラアーチェリー(リカーブ)種目にぺマリグセル選手が初参加を果たした。パリ大会では、女子10mエアライフル射撃(車椅子)にキンレイデム選手がブータンの唯一の代表選手として参加を果たしている。パラリンピックにおいても推薦枠を獲得するのは容易なことではない。まず、推薦枠に応募するための条件として、いくつもの決められた国際大会に参加して、出場資格の規定ポイントを上回る実績を残していることが必要である。その条件を満たした各国の多数の応募選手の中から選考委員会が協議して一人か二人のアスリートが選ばれる狭き門なのである。
パリ大会におけるブータン選手団の存在
パリ大会の開会式はセーヌ川から船に乗っての入場となった。五輪発祥の国ギリシャの次は、難民選手団が登場。参加選手が3人というBhoutan(フランス語表記)は、単独の小さな木目調のスピードボートに乗って登場して注目を集め「ブータンの船」が一時トレンド入りする。日本は大選手団であるにもかかわらず、ヨルダン、カザフスタン、ケニア選手団が同乗する大船での登場。小さな木目のボートに乗ったゴーとキラを着た若者がオレンジとイエローの雷竜の国旗を掲げ、小旗を振って観衆に応えるという演出は、オリンピックへの街道に咲く一輪の可愛らしい花のようなブータンの特別な存在を世界の人々にアピールしていて、パリオリンピックにGNHの香りをとどけているように思われた。
パリ大会で最も感動的な花を咲かせたのが、ブータンが初めて陸上競技に参加することになり、女子マラソンに出場したキンザン・ラモ選手である。ラモ選手は2022年のスノーマンレース(203km)で2位、2023年にプナカ市で開催されたブータン国際マラソンで3時間26分という記録で優勝という経歴をもつアスリートである。パリオリンピックは彼女にとって初めての平らな低地の国外大会だった。多くの選手が途中棄権となる中で、途中で一時は立ち止まることもあったラモ選手は、それでもあきらめずに80位、3時間52分59秒というタイムでゴールして、会場中の大歓声と称賛を受けたのだった。
水泳の100m自由形に参加しているサンゲ・テンジン選手は初参加の東京オリンピックでは57.57秒で泳ぎ、今回のパリ大会では56.08秒と自己記録を更新している。ところで100m自由形の世界記録が1分を切ったのは1922年のことで、サンゲ・テンジン選手の56.08秒という記録は、1936年のアメリカのフィック選手(米国)の世界記録56.4秒よりも速い。サンゲ・テンジン選手が世界記録に抜かれるのはフォード選手(米国)が55.9秒を出した1944年のことである。50mプールの一つさえ存在しないブータンの選手が80年前までは世界一位の記録をうちたてたということは驚くべき偉業である、と私は心底思うのである。ちなみにパリオリンピックでは潘 展楽(中国)が46.40秒という世界記録で金メダルを獲得している。
結び・GNHの風にたなびく五輪旗
ブータンの選手にとってオリンピックの意義は、その創設以来の理想である「参加すること」にある。そして個々のアスリートとしての目標は「自己ベストの更新」ということをあげている。アスリートのライバルであり超えるべき基準は常に「昨日の自分」であり、それは試合に勝つことでなく「自分に克つこと」なのである。
私には、金メダルをとったハッサン(オランダ)選手の2時間22分55秒よりも1時間30分長くパリの街道を走りスタンディングオベーションを受けたラモ選手と、世界記録を出した潘選手よりも9.5秒長くオリンピックプールを楽しんだサンゲ・テンジン選手のオリンピックこそが、「自らを克服し」「参加することの意義」を体現した至高の姿であるように思えるのである。
誇り高きブータン選手団のオリンピック参加によって、五輪旗がGNHの薫風に吹かれ、パリの空をたなびいた。
ブータン選手団とそれを支えたみなさま、ありがとう!! ごくろうさまでした。
ロス・アンジェルス大会のブータン選手団のさらなるご活躍を楽しみにしております。
この投稿のカテゴリー: しあわせ・Happiness、スポーツ、国際関係