人生
Thailand Open Masters Games 久しぶりの国際卓球交流・タイオープンマスターズ初参加・初優勝
Wonderful friendship and championships at the Thailand Open Masters Games!! スポーツを通した国際交流はいいですね!!
“We are the champions” in the team event of men 60’s, and I also got the gold medal in the men’s singles in the same category. At the final match of the team event, I was the last player losing by 0-2 games. People in the hall was excited and cheering up the Thai player who was about to defeat a Japanese opponent. It was a matter of a pure luck that a tide of the game changed. My coming back to get 3 consecutive games brought a champion trophy of men’s team event to Japan team. There is a short movie of the game and prize award ceremony of our game below (in the middle of the movie at aroung 5:00 min)
Similarly, the goddess of victory kissed my racket in the thrilling games of 3-2 with Hong Kong player and the final with our team mate, Tachibana, in the men’s singles.
With or without a trophy, it was a wonderful moment of life that has brought instantaneous and natural friendships among players from different corners of Asia including Thai, Hong Kong, Myanmar, India, Nepal, Pakistan, Korea, China and Japan.
I would like to express our heartfelt thanks to our Thai friends, particularly, Van-san and Charlie san, as well as the organizers of Thai TT Association for their love to sports and extraordinary hospitality. Last but not least, my sincere appreciation goes to Kahara (華原)san for leading us, and Nishida (西田) and Tachibana(立花)kun for their great company. We all are looking forward to the next gathering of table tennis friends without border.







2022年全日本マスターズ(ローシックスティ)の部、二連覇成る!!
今年の全日本マスターズは、昨年のチャンピオンということで第1シードで参戦。身に余る光栄だ。FIでいうところのポールポジション。しかし組み合わせがよくなるというわけでもない。ぶち込みでかなりの強豪選手と最初からぶちあたる。
初日は、2回戦と3回戦を勝ち残れば良い。2回戦の相手は、地元岡山の渡辺均選手。右ペンドラで裏面ドライブも使うマスターズでもベスト4に入ったことのある強者。コロナで地元応援団がいないのが救いか。手の内がわからないうちに、ロングサーブから撃ちまくる展開で、1ゲーム目を先取。2ゲーム目は、裏面ドライブ攻撃をされてボールに合わず、こちらが慌てる。フォア前サーブと長いサーブのコンビネーションで切り抜ける。3ゲーム目、大きなラリーでバック裏面のカウンタードライブで逆襲されたり、見どころ豊富な展開。なんとか勝ちきった。
3回戦は6段の栗原万実選手、右ペン表。好々爺の雰囲気で実はすごいファイトマン。私のドライブをすべて前陣で封じ、1ゲーム目を簡単に落とす、真っ青な出足。2ゲーム目はフォアへのロングサーブを混ぜて、相手を動かして崩す。3ゲーム目は栗原選手の3球目攻撃やブロックが冴えて大接戦、これを取ったのが、勝負の分かれ目だった。
階段落ちの足腰の痛み。練習などのやりすぎか、、、右腕の痛みとしびれが続いていて、攻撃したボールに伸びがない状況。夕食は、同期の西田くん、立花くん、平山くん、大阪のチーム仲間らと会食。体調を整えるため早めにホテルで休む。
二日目の最終日、朝7時から西田くんの車で、立花くんの練習場まで連れて行ってもらい、30分ほどいっしょに汗を流す。3人ともランク決定の試合が午前9時から始まる。
私の対戦相手は、茨城の河本雅史選手。右ペンイボ高で裏面に裏ソフトを貼り、裏面ドライブする器用な戦型。1ゲーム目、ロングサーブをフォアでもバックでもうまくいなされて、そのナックルボールを攻撃しようとしても入らない。あれよあれよ、打っても入らないまま1ゲーム目を失う。ベンチコーチの高田くんも、「お前はどうしたい?」とアドバイスにすら困る危機的状況。とにかく必死で返球し、攻撃を入れるしかない。ボールが走らず、かなりブロックされ、しかも裏面ドライブを何度も打たれて、ゆるいながらも目まぐるしい展開。ガマンで拾って、勝ちを拾う。精神的なプレッシャーと、ボールを拾う身体的な労力と、忍耐の泥沼から這い上がって、まずはベスト8のランキング獲得を果たす。
準々決勝は、お馴染みの顔、東京の河合秀二選手。右ペンドライブ・前陣攻守の技巧派。同じ東京でも初めての対戦。1ゲーム目はサーブからの攻撃がうまくいって先取。しかし、上から横切りするようなバックプッシュと早い切れたツッツキ、そしてクロスへの落差の大きドライブで、2ゲーム目を取られる。3ゲーム目の接戦が山。9-9からレシーブをバックプッシュして連取。4ゲーム目は8-10からの挽回勝ち。フォアにふられたボールに対して、右腕がうまく振れなくてドライブ攻撃が決められず、際どい勝負となった。
準決勝は、熊本の堀川好実選手。右シェーク裏裏の本格的な両ハンド攻撃型。バック技術が多彩で、バックバックで押されるのはこれが初めて。フォアドライブも勢いがある。背が高く、とにかくフォアへの飛びつくカバー(守備)範囲が広い。10-8のリードで勝ち切るはずだったが、うまくドライブをブロックされて10-10とされて、逆転負け。これが契機となって、どんどん打たれて、2ゲーム目も落とす、もうあとがない最悪の展開。バックハンドドライブもうまくて、攻撃する場所もサーブする場所もない。「ミドルを狙え」という高田くんの指示。サーブを短く出すとこれは丁寧に返されて攻撃につなげられる。リードしかけるのだが、エッジやネットボールで追いつかれる精神的にタフな展開。結局8-10となり、相手のサーブ。ここでタイムを取る。「どうしようか」「あと一本で終わりか」「まだあきらめるな」「思い切っていくしかない」さっき、私が空振りしたバックへのロングサーブに狙いを定める。よし、ズッコーン。きれいにバッククロスへの強ドライブでレシーブエース、9-10。次も思い切るぞ。バックのサイドを切る横下ロングサーブがくる、いいサーブだが、これは、横切りプッシュしかない。ミドルに突き刺さり、レシーブが決まる、10-10。サーブはフォア前で三球目ドライブが決まる、11-10。レシーブを打ち12-10と挽回勝ち。4ゲーム目は、右腕がかなり振れるような体調が戻ってきた。粘りと攻撃で11-8で取る。5ゲーム目は流れが完全にこちらにきて大差で切り抜けた。放心状態、まだ負けてない。次の試合が待っている。
決勝は、西田くんに勝った西家功選手、典型的な右ペンドラ。ずっとマスターズで活躍している名選手。今回は花木さんにも勝って決勝進出で調子がいいに違いない。サーブはバックサーブでフォア前とバッククロスに出す。丁寧に出してくれるので、逆をつかれたりすることはほぼない。出れば打ち、でなければストップか払う感じ。バッククロスへのドライブがシュートして無茶早く威力がある。私のロングサーブからの展開がうまくいき、西家さんのサーブからの展開を崩せたことから、ポイントを常にリードするパターンとなり、精神的にも波的にも優勢を保つことができた。途中からフォアサーブに切り換えたが、これもバック対バックで私の優位が変わらず、攻めきることができ、勝利。
二連覇できたというより、負けずになんとか、大会を終えられたというのが実感。
今大会で前大会と違うのは、九十九チームから6人もマスターズ代表選手がでて、そのうち3人がランクに入ったこと。大阪の仲間も応援してくれて、西田くんや立花くん、井上くんといった同期の仲間の協力や支援があったこと。持つべきものは友、仲間、気持ちの和である。ベンチコーチの高田くんは、24時間態勢で私の面倒をみてくれた。協会や主催者、審判団の方々からも温かいサポートをいただいた。心より感謝、感謝、感謝です。
いろいろなドラマがありますね。これからも精進します。ありがとうございました。




第36回大阪マスターズ(50代) 準決勝に辿り着く!
昨年、なぜか第一シードで決勝まで到達し、名選手 坂本憲一さんに1ー3で打ち負かされた、大阪マスターズに今年も参戦しました。前回は、全日本マスターズのあとで開催されたのですが、今回は、全日本マスターズ(岡山)が12月2-5日と遅れて開催されたため、一週間前の前哨戦となり、60代の強豪選手が50代に多く参戦していました。60代では友人で同期の立花尚人さんが初優勝!! おめでどうございます。
私は、第二シードでしかも2回戦からの登場となり、午後1時半に最初の試合をしてから、あとは勝ち抜けば試合が目白押しとなりました。相手の選手の試合を観戦できるのも2ー3回戦までで、あとは、もう誰が対戦相手かもよくわからず初見の対戦ですね。
2回戦は齊選手YG的な巻き込みサーブがうまい選手。サーブ+三球目で打ち勝つ。3回戦は田坂選手、右ペンでフォアドライブもショートもうまい。2ゲーム目からフォア前サーブをうまく返球できずに大苦戦。1-1とされ、3ゲーム目も4-8でリードされ、展開的にも精神的に苦しい状況。フォア前サーブが少しでるところをドライブし、少しずつ挽回。9-9、10-10となり、粘りで逆転。4ゲーム目も競ったがなんとか入れ込んで勝ちを拾った。
4回戦は村上充さん、右中ペンの本格的なドライブマン。ほっそりと背が高く、手足も長いファイトマン。戦術的には、こちらが前について打ち合い、相手を揺さぶる形で有利な展開なのだが、50代とは思えぬフットワークのよさと後陣からの引き合いの強さで、幾度も渾身のスマッシュを弾き返される。村上さんのバックハンドも入り始めて、3ゲーム目を落とした。とにかくよくフォアに飛びつき、バックもロビングで粘る。打たされすぎた感もあるが、なんとか打ち勝って3-1の勝利。
準々決勝は、同じく東京から参戦の新50代、有間博幸さん。有間さんとは、鎌倉で練習したことがある。腰痛でフットワークが悪かったとはいえ、そのときはひたすら打たれまくって完敗。有間さんは、バックカットを多用するフォアドライブ主戦型である。最近は、右腕にここ数年の筋肉疲労が出ていて、あまりカット打ちを続ける自信はなかった。とにかく、レシーブからすべて打っていくつもりで、ガンガンといく。6-2とリード。しかしサーブミスから追いつかれる展開となり。しゃがみ込みの変化サーブをレシーブできずに10-9まで迫られる。万事窮すと思って構えると、ここで有間さんがサーブミスで1ゲーム目をギフト。これが勝負の境目だったかも。2-3ゲームもサーブとシュートドライブが取れず挽回されそうになったが、とにかく、レシーブで打っていく姿勢が功を奏してストレートで準決勝進出を決めることができた。
準決勝は、前々回の全日本マスターズ50代チャンピオンの華原張さん。東京キングコングの中国帰化選手である。右中ペン裏裏。両面Dignics05を使っている。ラケットも180g近くあるそうだ。痩せて見えるが、足も腕も胸も筋肉モリモリのむっちゃ鍛えているスーパーオッサンである。初対戦で、胸を借りるつもりでぶつかろうー。(こちらの右腕の付け根はかなり痛みを発していて、湿布をはりまくって試合にのぞむ。こういうときにテーピングできるといいのだろうね。)
1ゲーム目はとにかくミスの少ない華原さんに対し、やや焦って、5-9とリードされる。ここから攻撃が入りだして、波が動く。10-10となったときは、こっちにチャンスが来たと、うち続け、なんと12-10の逆転勝ち。2ゲーム目も流れが来ていたが、華原さんの巻き込みサーブを浮かせてしまい、3球目で決められる。こちらの攻撃は必ず何本か止められるため、ポイントするのが大変。とにかく、バックハンドでスマッシュはしないのだが、回転を加えてクロスに深く返してくる、フォアに揺さぶっても、フォアの飛びつきは慣れたもの。バックをついても楽に返球。全力のエースボールを打つしかポイントできる可能性が生まれない。まあレベルが高くなればそういうものだ。1-2で迎えた第4ゲーム、10-10からの長いバックプッシュとフォアドライブの応酬からカウンタードライブをオーバーミス。最後はネットインのボールをドライブで攻撃したが返球されたボールをプッシュでオーバーミスして大阪マスターズ終了。
華原さんは、そのあとの、坂本さんとの決勝を制して、初優勝を飾った。坂本さんは、いくつになってもレベルの高さを維持しているスーパーレジェンド。その域に達せずとも、感じれるだけでも収穫ですね。
準決勝までたどりつけたのは十分な成果。試合の勝負勘を持つことができたことも、今週末の全日本マスターズに向けていい前哨戦となった。右腕の脇、胸筋あたりがかなり痛んでおり、ドライブを打つ時にキリキリとくるため、しばらく休養が必要。マスターズの戦いは自分の体調との戦いの部分が大きい。
実は、試合前日に、階段をX段ほど飛び落ちるという大怪我寸前の事態に遭遇。運良くおしりと太ももの打撲とミミズ腫れ、突き指ぐらいで済んだ。とはいえ、この歳になると、いつどこでつまらぬ怪我や病気をするかもしれず、みなさまの無病息災を祈願しております。
全日本マスターズ二連覇を目指して、ガンバろー!!




知的障がい者と卓球 ~親子で拓いたパラリンピックの道~
全国障害者総合福祉センター編集、日本障害者リハビリテーション協会発行の『戸山サンライズ』という季刊誌に、表題の拙稿が掲載されました。
2020東京パラリンピックの卓球競技において、日本で唯一の、そして知的障がいクラスでは初めてのメダル(銅)を獲得した、伊藤慎紀選手のお母さんのお話をもとに、親子で辿ってきた九十九折りの長きパラリンピック・メダルへの道をつづったものです。
10のクラスに分かれる肢体障がい部門と比べ、クラスが一つしかない知的障がい部門では、障がいが比較的重い選手が活躍することは難しい状況があります。その傾向はパラリンピック競技となってさらに強まっているといえるでしょう。障がいが軽い方ではない伊藤選手は、これまで日本国内のチャンピオンシップ大会で、10回も優勝を遂げている知的障がい者卓球のパイオニアであり、レジェンド的な存在といえるでしょう。ベテランになった今、パラリンピックで銅メダルという偉業を達成した伊藤選手の栄光を支えてきたのが、家族であり、お母さんの伊藤享子さんです。”障がいがあっても、がんばれる。その障がいの程度が重くても、あきらめることはない、ということを伝えたい”。そう語ってくれた伊藤享子さんと伊藤慎紀選手の親子のストーリーを少しでも知ってもらえたら幸甚です。
日本知的障がい者卓球連盟に対する裁判
私、元日本知的障がい者卓球連盟コーチの田中敏裕と知的障がい卓球代表選手の帯同コーチで同連盟の正会員でもある岸本昇子氏は、東京地方裁判所において、名誉毀損、性的マイノリティ(LGBT)に対するジェンダーハラスメント、パワーハラスメント、業務妨害等の事由による損害賠償請求の訴訟を日本知的障がい者卓球連盟の複数の理事および連盟に対して起こしました。
これまでの主な経緯は、
日本スポーツ仲裁機構の仲裁判断について « Happiness via Ping Pong (happy-development.com)
これまでの経緯について « Happiness via Ping Pong (happy-development.com)
で説明したとおりです。
最終判断とされる日本スポーツ仲裁機構の仲裁判断は以下のとおりです。
主 文
本件 スポーツ仲裁パネルは次のとおり判断する。
1 被申立人が 2020年 7月 29日に行った、申立人を一般社団法本知的障がい者卓球連盟賞罰規程第 7条 1項(4)にいう指導の処分とするした決定を取り消す。
2 被申立人が 2020年 8月 23日に行った、申立人を被申立人における 2020年度のコ ーチとして任命しないとの決定を取り消す 。
3 仲裁申立料金 55,000円は、 被申立人 の負担と する。
このように全面的に私の申し立ての正しいことが認められました。にも関わらず、その3日後に、日本知的障がい者卓球連盟理事会は、私を連盟コーチとして非継続とする決定をくだし、私は正式に連盟より排除されることとなりました。その後に行われた社員総会においても、本件に関するメディア等への公開説明や私に対する謝罪を問う社員に対して、「必要はない」と回答し、私のコーチとしての資質に疑義を呈する発言もありました。当理事会は数年前の私の社員申請を却下しており、私には、総会に参加して弁明するすべもありません。日本スポーツ振興センターや再度スポーツ仲裁に訴える権利もなく、今回、東京地裁における訴訟にいたりました。
岸本昇子コーチは、当理事会の承認を受けた、一般社団法人日本知的障がい者卓球連盟の女性正会員(社員)です。国際大会への参加登録の際にも、当連盟事務局を通じて女性として登録されています。にもかかわらず、連盟内の会議において”男性”であると見做され、”おかま”等と揶揄するなどの言動が理事にみられることに、深く心を痛めておられました。このような、性的マイノリティに対するハラスメントにあたる行為が許されるものではないことは、近年、日本社会にも浸透しており、スポーツ界においても基本原則であり、常識であるべきことでしょう。
知的障がい者卓球に夢を抱いて、ピンポンにいそしむ子供たちや家族が、差別や不利益を受けず、平等に公正で適切なケアやサポートを受けられる体制をつくることは、知的障がい者スポーツ関係者の真の願いであり、ノーマライゼーションに向けた日本社会の目標でもあります。そういうパラスポーツの世界へと小さくとも正しい一歩を踏み出すきっかけとなれば、ありがたい、と思います。
4月25日、東京地方裁判所8階803号法廷において、第一回口頭弁論が開かれました。
裁判長:成田晋司 裁判官:萩原孝基 裁判官:吉田怜美
原告訴訟代理人:大沼宗範
被告連盟訴訟代理人:安藤尚徳 長谷川佳英
被告 A, B, C, 訴訟代理人: 斉藤真代
共有:Happy Ping Pong
敗戦は苦いもの、仲間はありがたいもの
東卓3部リーグの試合が、田無市の西東京体育館で開催される。
シニアリーグとは違って、年齢制限のない世代を超えた自由な組み合わせで試合ができる。
古い卓球と新しい卓球がぶつかるとどうなるか。バック技術の差が大きくて、古いものがあれよあれよと淘汰される時代です。そのため、バックハンド技術を毎日のように鍛えてきました。
それでも、台上で先にバックドライブやチキータをされるとアップアップする。それでもやっと返球するとコースを変えて、逆回転で伸びて逃げるボールを送られる。合わせるだけで返すと、回り込まれて思い切りフォアの強ドライブを食らって飛ばされる。
わかっちゃいるけど、止められない!!
若い選手でバックハンド技術が優れていても、それだけに、あまりフットワークを使わない選手の場合は、なんとか返球すると、連打に慣れていなくて、ミスがでることもある。こういう場合は、頑張れば勝てる可能性が生まれる。
サーブが効く場合は、ポイントを挽回して、最後の9本、10本で強気でいけるのだが。サーブが効かないと、勝敗は相手まかせ、運まかせになることも多い。
初田選手との試合は、似たようなペンドライブの戦型だったので、どちらが最後の一本までしっかり打てるかの勝負となった。バックで負けない自信があったのだが、相手がかなり丁寧で安定した両ハンドを振るので面食らう。卓球の試合では、想定外なボールやパターンに会うと、極端にミスが多くなってしまう。相手の動きのほうがよく、ボール扱いも上手、しかも私のボールをサーブから苦にせずに返球してくる。真っ向からの勝負となった。1-2で敗北。
今回の試合は、相手の戦い方を見ることもせず、ただ当たったときに、出たとこ勝負で試合する形となった。自分が練習しているパターンや球質の違うボールにミスが出る。足が動いていないのも、ミスの主要な原因だ。気持ちも負けたくないと焦るだけで、勝つために必要な気力や胆力が出てこない。なぜなのだろう。この大会に合わせて練習や調整をしてこなかったのは確か。昨夜は腰と腎臓あたりに痛みがあった。今朝は痛みはひいていた。足は疲れてはいなかったが、動きが鈍かった。手や腕の感覚は、ラケットを小さく感じてやや心許ないというのか、強打するための鋭い振りがうまくできていなかった。
いろいろと感じ、考える反省点は多い。一つだけやるべきことを選ぶとすれば、体力を鍛えることに尽きる。ボールに向かって走らないといけない。レシーブの構えを、台の近くでやや身体を起こした体勢に変えて、最初の試合だった。台上のカバーがよくできるようになったが、その分、研ぎ澄まされた集中力とボールの鋭さが削がれることとなったようだ。目線をネットまで落としてまたやり直してみよう。
全国大会が遠のき、コロナが周りで出てきて、少し、心と身体がなまってきているようだ。また、ミスが出て自分のプレーに自信がなくなると、待ち時間が長くなり、相手をじらすことにもなったようだ。誰にとっても気持ちのよいことではない。
自分でも不甲斐ないとおもう試合をするぐらいなら、座禅でも組んだほうがいいだろう。
最後の試合では、私は、ダブルスもシングルスも負けてしまったのだが。あとの仲間の3人が3勝してくれたおかげで、チームは勝ち、最下位を免れた。こんな経験は、生まれて初めてのことだ。仲間と飲むビールはほろ苦かったが、チームメートがいることはアリガタキことだ、と久々にヒシヒシと感じる日となった。
高木美帆のギンギラギン(銀銀銀)の金メダル:限界を超えた神の領域
高木美帆は前回の平昌オリンピックで、金、銀、銅メダルを獲得し、一躍、誰もが知る、スケート界のスター選手となった。しかも平昌大会では、姉の高木菜那も金メダルを2つ獲得し、スケート界のトップ・ライバル姉妹としても、有名になった。
4年に一度のオリンピックにおいて、一つの大会で大活躍できれば、それがアスリートとしての自分の頂点と位置づけられ、次の大会では、その栄光を少しでも維持できれば幸運と考える。連覇できれば、最高の出来といえるだろう。しかし、高木美帆は前の大会の栄光を今一度という目標にとどまらず、5種目に出場するという前例のない攻めに出た。
最初の3000mは6位。得意とする種目ではなく、長距離で最初の競技とあって、自分の体調や氷の具合を確かめるという意味もあったのだろう。あまり無理をしなかったのではないか。次の1500mが、世界記録保持者として金メダルの大本命であり、前回の銀を金に変えるマジの勝負だった。しかし、再び銀メダル。
500mは自己ベストを出して、最終滑走の組まで一位を維持。金メダルを願って見ていたが、アメリカ初の黒人選手であるエリン・ジャクソンがわずかに上回って金メダルを獲得し、高木美帆が銀メダルとなった。
【試合後の一問一答】
ー今の気持ちは
「苦しい時期が続くなか自己ベストを出せたこと、こん身のレースができたことがうれしかった。今は正直、驚いている気持ちでいっぱい」
ー滑り終わってから結果が出るまで長かった
「パシュートも近いので、まずは自分の体をリカバリーさせなきゃなというのと、時間が今日だけはナイトレースということで、どうやってリズムを戻そうかということも考えてはいたんですけれど、組を重ねるごとにメダルの可能性が出てきたので後半になってくるとちょっとそわそわしはじめた」
ー自身5個目のメダル。これまでとは違う意味があるか
「正直なところ、500メートルに出るかどうか本気で考えたこともあったが、最後まで挑戦してよかった。500メートルに関してはチャレンジした証しだと思っているので、すごく誇りに感じる」
ー次は団体パシュート
「団体パシュートは個人種目とは全く違った重みがある。ひと言で表せるものではないが、何が起こるか分からない種目。ひとつひとつを大事にしつつも上をみてチーム全員で挑戦していきたい」
パシュートは前大会で金メダルを獲得して、常に一位を堅持し、今大会でも金メダルの筆頭候補の種目である。最後のカーブまでリードして金メダルは確実と思われたそのときに姉である高木菜那が転倒するという悪夢のようなアクシデントが起きて、またも、よもやの銀メダル。泣きじゃくる姉を支える胸中が思われた。
日本女子団体パシュート、転倒と「その後」 「スッキリ」が伝えた妹・高木美帆の行動
1000mでオリンピック記録を達成して、金メダルを獲得!!
高木選手は「オリンピックの出だしはつらいことがあって、自分の調子も上げきれないときがあったが、最後に自分のすべてを出し切り、金メダルを取れなくても悔いはないと思えるようなレースができたのが本当にうれしい。そして、金メダルをとれたことは、形となって残ったと思う」と喜びを語りました。
また、今大会7回のレースを終えたことについて「正直に言って、体は限界でギリギリだった。無事に走ることができてよかった」と振り返りました。
そして「たくさんのエールをもらったことで、ひるまずに攻めることができた。最後、このレースが終わって、やっとみんなにありがとうを言える」と感謝のことばを述べました。
平昌大会のときに23歳、北京大会では27歳という年齢をどのように見るか。2010年のバンクーバー大会に15歳で初出場していることから鑑みれば、高木美帆がすでにかなりのベテラン選手であることはたしかだ。しかし、平昌大会では500mで金、1000mで銀メダルを獲得した大スター選手である小平奈緒が当時31歳だったことを思えば、次回の2026年のイタリア(ミラノ&コルティナ・ダンペッツォ)大会で、高木美帆は頂点を迎えるという考えも成り立つ。27歳で迎えた北京大会は、高木美帆にとっては、強欲に出来得る限りすべてのチャンスに挑戦するという無茶のできる大会だったということなのだろう。小平奈緒や岡崎朋美といったスピードスケート界のリーダーたちが35歳でオリンピックに出場していることを鑑みても、高木美帆はあと2回のオリンピックに出場する可能性があり、彼女は現時点において世界のトップアスリートとしての人生の中間点にあるのかもしれない。高木美帆の活躍がまだまだ見れる私たちは幸せ者である。今大会における高木美帆の5つの挑戦は、いくつもの人生ドラマが凝縮された名場面に彩られていた。選手も観衆も喜怒哀楽をともにし、感動が広がった。高木美帆と高木菜那というアスリート姉妹の存在に感謝したい。
高木美帆 今大会全レース結果
今大会5つの種目に出場して金メダルを含む4つのメダルを獲得した高木選手のすべてのレースの結果です。
《個人種目》
2月5日 女子3000m 4分1秒77 6位入賞
2月7日 女子1500m 1分53秒72 銀メダル
2月13日 女子500m 37秒12(自己ベスト)銀メダル
2月17日 女子1000m 1分13秒19(五輪新)金メダル
《女子団体パシュート》
2月12日
準々決勝 2分53秒61(五輪新=当時)8チーム中1位 準決勝進出
2月15日
準決勝 2分58秒93 ROC=ロシアオリンピック委員会に勝利、決勝進出
決勝 3分4秒47 カナダに敗れ銀メダル

平野歩夢「ようやく小さい頃の夢が一つかなったな」
いまでも男の子と言ったほうがしっくりとくる雰囲気の平野歩夢は、実は、2014年(ソチ)と2018年(平昌)冬季オリンピックで、2回連続銀メダルを獲得しているスノーボードのトップを走り続けるスーパー・ベテラン選手である。平野歩夢には、憧れのレジェンド・スター選手がいる。アメリカのショーン・ホワイトである。ショーンは13歳のときからプロスノーボーダー兼プロスケートボーダーとして活躍し、スノーボードでもスケートボードでも国際大会で金メダルを獲得している。スノーボードでは2006年(トリノ)と2010年(バンクーバー)でオリンピック連覇。2018年(平昌)には平野歩夢に逆転で3度目のオリンピック金メダリストとなった。今回の2022年(北京)で引退を表明しており、4位の見事なパフォーマンスを見せた。
初めてスケートボードが夏のオリンピック種目として採用された東京オリンピックにおいて、すでに冬のオリンピックのスター選手である平野歩夢が、スケートボーダーとして夏のオリンピックに挑戦することを決めたのも、目標とするショーン・ホワイトの足跡をたどり、いつかレジェンドに並び、新しいフロンティアを切り拓こうという思いがあったからではないか。
今回、平野歩夢が史上初めて成功させた「トリプルコーク1440」は、2012年4月にショーン・ホワイトが練習中に大怪我をして入院したといういわくつきのもののようだ。そのほぼ10年後に、平野歩夢が、初めて成功させ、ショーンのかなえられなかった夢の技を歩夢が達成したという、スノーボードの新しいレジェンドの誕生を示す象徴的な出来事だったのではなかろうか。
それにしても、一年延期されて今年8月に開催された東京オリンピックにスケートボーダーとして参加してから、3-4ヶ月という短期間において、スノーボーダーとして世界のトップに君臨する技と身体と精神力を想定し、強化し、マスターするという到底信じ難い離れ業をやってのけた事実には、震撼するほかない。
冬季オリンピックにおいて、銀、銀、金、という3回連続のメダリストとなった平野歩夢がスノーボード界をリードする存在であり、すでにレジェンドとしての風格を持っていることに疑いはない。彼にとって、北京オリンピックの金メダルは、2014年と2018年の忘れ物をやっと取り返したような出来事だったのかもしれない。おそらく、「トリプルコーク1440」をこの世に出せたこと。完璧だったはずの2回目の演技が、91.75点という低い評価を受けた「怒り」をバネにして、3回目の演技をより高く、より美しく、完成させて、96点をたたき出し、心技体のそろった文句なしの第一人者として世界を納得させられたこと。それらすべてがひとつとなって、「小さい頃の夢」を実現している自分を見ることができたのだろう。私たち観客も、高く、遠く、長くも感じた彼の夢がかなったパーフェクトな瞬間を、平野歩夢に見せてもらったことを心から喜んだのだ。
平野歩夢は、「夢を歩む」ことを、親から与えられたのではなく、自分の運命として受け入れ、人生として体現している。夢のようなそして過酷な修行者的な存在である。スノーボードの世界、そしてスケートボードや他の世界においても、その好奇心と向上心で、まだまだフロンティアを広げてくれそうな「夢見る」そして私たちにも「夢見せる」存在として、平野歩夢を心から応援したい。


未来の時空からきた羽生結弦の闘い
地球上における羽生結弦の存在は、タイムマシーンで未来からやってきた理想の人間像を示しているようだ。現世に生きる私たちに、異次元のレベルのフィギュアの世界を魅せてくれた。4回転という途方もない身体技術のフロンティアを一人で拓き、一気に、時計の針を進めて、フィギュアスケートのあたりまえのメニューにしてしまった。羽生結弦の凄さは、実は、技術だけではなく、そのしなやかで美しいフォームにある。人間を煩悩から救おうとする観音様のような、男女の性別や世代を越えた、キリリと整った顔立ちと細身でしなやかに伸びた手足。鋼のような強さを秘めた身体は異様に柔らかく、白い氷のキャンパスの上で、人間とは思えない直線と美しい弧を描きながら回り、踊り、跳ねる。天女の舞いとはこのようなものなのにちがいない。羽生結弦は、透明な翼を持つ地上に降りたエンジェルなのだろう。なぜ、日本人の男性として生まれたのかはわからない。日本社会の世界にも遅れた貧困なる精神を救うためなのか。中国においても絶大な人気を誇る羽生結弦の存在は、特異かつ稀有なものである。世界中の誰もが、オリンピック番組のテレビの前で、思わず手を合わせて、彼の思いがかなうよう祈りを捧げてしまうのである。
前回のオリンピックでは、完璧な演技を魅せて、金メダルに輝いた羽生結弦。以後、ケガとの戦いが長く続いた。水や空気、そして精神まで汚染された現世の人間社会において、注目と期待と好奇の目を浴びながら、神聖で清浄で完全なる心身を保つことが困難なことは、M78星雲から来たウルトラマンの例をださなくてもわかることだ。
今回はネイサン・チェンという大本命がいる中で、羽生結弦は、早い時点から、クワッドアクセルの成功をオリンピックの目標としてあげていた。未来から来た伝道者として、そして己の決めた道を極める求道者としての羽生結弦の真骨頂がそこに現れている。そもそも初めから、羽生結弦は、「勝ち」ではなく「価値」を求める存在だったのだ。そして、今日、羽生結弦の4回転アクセルは、オリンピックの場で正式に認定された。
羽生結弦は、期せずして4位となり、2位の鍵山優真、3位の宇野昌磨が、銀メダルと銅メダルを獲得して日本のフィギュアスケート界にとって未来への希望をつなぐ結果となった。これは、羽生結弦にとっても、安堵できる、ベストの結果だと思う。今の羽生自身が、銀や銅メダルを得ることに、自分でなくてはならない「意味」を見出すとは思えない。歴史と万人の心にその歩みを刻み続ける羽生結弦にとって、その影を慕いて後に続く若者を鼓舞することも「価値」のあることだと思っているにちがいない。



ヒトの脳と人間の精神的世界
以前のブログ(オリンピズムと人間の進歩 « Happiness via Ping Pong (happy-development.com))で英国の歴史家トインビーの考えについて以下のような話をした。
「人間は非人間的自然を処理すること」は得意であるが、自分自身を含む「人間の内部にある人間的自然を処理する」ことには不得意だという。そのため、人類誕生以来現代にいたるまで「非人間的世界」における顕著な進歩と、人間の内部の「精神的世界」における未成長または非進歩という、トインビーのいうところの著しい不釣り合いによる「この地上における人間生活の一大悲劇」が進行中である。地球温暖化や紛争や貧困は、その人間の業ともいうべき「悲劇」の産物と考えられる。
今回は、ヒトの脳と人間の精神的世界との関係について考えてみた。
人間内部の精神的世界をつかさどるのが、類人猿を始めとする他の動物よりも極度に発達した人間の「脳」であることに疑いはないだろう。人間という生物が持つ「脳」という器官の中でそれぞれの人の精神的世界が生まれて、成長して、いろんな展開をして、消えていくものなのだろう。これを「魂」と呼んで、DNAのように脳を入れ物または乗り物として「前世」から「現世」そして「来世」へと転生していくものとする解釈も、(私自身を含めて)一般的に信じられている。身体を離れた魂が存在するとしても、その魂は、生きていたときの記憶をよりどころとし、そのときの所業に伴う因果を背負うものと考えられている。
脳=精神的世界における思考活動には決まった限界が存在しないという思いを抱くのは、私だけではないだろう。しかしながら、脳は生物学的に有限な存在であり、肉体とともに死に至る存在である。人間の精神的世界が肉体の檻から開放されず、その進歩も生物学的進歩に準じているのは、魂という存在が人間の脳と切り離せないものであることの証明(あかし)なのだろう。
さて、人類誕生以来、脳は発達を続け、その大きさも2百万年前の4倍程になっているそうだ。しかし、この人間の脳が3千年前からは縮小に転じているらしいのだ。この原因について、蟻の脳の進化と比較した研究報告(デシルバら, 2021) がある。その報告によると、人間社会の拡大に伴い、個人の知性に基づく判断よりも(専門家などの)集団的知性への信頼と分業が進んだことで、人間の脳が効率化して、縮小に転じたということらしい[i]
「人間はポリス(社会)的動物である」と言ったのはアリストテレスである。蟻や蜂は社会性昆虫と言われ、女王を頂点として階層化された集団社会を形成することで知られている。その蟻の脳の進化と人の脳の進化と比較できるということ自体、想像し難いことであり、不可思議そのものである。脳の生物学的な発展の長い過程に比べてみれば、魂の記憶はあまりにも短いようだ。おそらく同じ人間として転生できたとしても、前世一代の記憶があることすら稀有という話が、転生モノの多いアニメの世界ですら常識となっている。魂は一人の人間の精神的世界(あるいは人格)を宿すものとして考えられている。しかしながら、その精神的世界は次の世に引き継がれることすら稀有であり、三世とはもたないようだ。個々の人間の魂という名の精神的世界にも寿命があるということなのかもしれない。
[i] 大きくなりすぎた人間の脳を維持するためのエネルギーコストは馬鹿にならないので、脳を効率化(ダイエット)する必要があったという説がある。
Toyinbee, Arnold J. (1948). Civilization on Trial. (アーノルド. J. トインビー. 深瀬基寛(訳) (1966). 「試練に立つ文明」 社会思想社)
DeSilva, J. M., Traniello, J. F. A., Claxton, A. G., & Fannin, L. D. (2021). When and Why Did Human Brains Decrease in Size? A New Change-Point Analysis and Insights From Brain Evolution in Ants. Frontiers in Ecology and Evolution, 9. doi:10.3389/fevo.2021.742639