人生

人間の夢「より速く、より高く、より強く」と技術の進歩  (スーパーマンは人か、人でなしか?)

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人間は、技術の進歩によって、より速く移動でき、より高く空を飛び、より強い破壊力を持つようになった。しかしながら、人間のホントの夢は、人工の機械を使ってこれらを達成するのではなく、スーパーマンになることなのだろう。スーパーマンが人間であるかどうかは、おそらく、その問いすら無意味なことだろう。人間の夢には続きがあって、スーパーマンがパーフェクトな人間(ヒューマニティ)の精神を持つことである。スーパーマン映画は、このパーフェクトな人間の精神を持つことの難しさを伝えることにより力を注いでいるように思われる。

「より速く(Citius)、より高く(Altius)、より強く(Fortius)」というオリンピックのモットーは、オリンピック・ムーブメントに所属するすべての者へのIOCからのメッセージであり、オリンピック精神に基いて研鑽することを呼びかけたものである(日本オリンピック委員会)[i]

【人力の夢】人間は空を飛ぶ翼があればと願い、飛行機を発明した。しかるに、スポーツの世界では、今でも人々は走り高跳びや走り幅跳びで世界記録を数センチ伸ばすために、たゆまぬ努力を重ねている。100メートル競争で10秒を切り、0.01秒を縮めることに一喜一憂している。夏季オリンピックには、身につけるものや用具の少ない水泳競技から、走力、跳躍力または砲丸や槍などの投擲力を競う陸上競技や重量挙げ、対人で行う格闘技やゲーム性の高い球技、そして用具を使った速さを競う自転車および正確さを競う射撃やアーチェリーなど、多様な競技が存在する。冬季オリンピックのスケートやスキーを含め、そこに共通する基本原則は(射撃と馬術を除き)すべて競技が人力を動力として行うことをルール・原則としていることである。

【人力と技術力】100m競争の最も古い公認世界記録は1912年の10秒6である。現在の世界記録は2009年にウサイン・ボルト選手が記録した9秒58であり、およそ100年で1秒(約10%)縮めたことになる。他方、1903年のライト兄弟の初飛行は時速約11 kmだった。これは人間の最速速度の36 km(100mを10秒)より遅い。しかし、飛行機は驚異的な発達を遂げ、1960 年代において、すでに時速3千kmを超える戦闘機が出現している。スポーツの記録更新に貢献する技術といえば、例えば、1970年代まで車いすマラソン競技においては生活用の車いすを使用しており、当然のことながら、オリンピックのマラソン選手よりも遅かった。しかし、車いす製造の技術の進歩によって、1980年のボストンマラソンで1時間55分00秒という記録が出て、健常者の世界記録を一気に抜いてしまう。2021年には大分国際で1時間17分47秒という車いすマラソンの世界記録が生まれている。義足の走り幅跳びジャンパーとして話題になったドイツのラザフォード選手は、義足を使っての跳躍が公平性に疑問があるとされて、金メダルの可能性があった東京オリンピックへの道を閉ざされた。国際パラリンピック委員会はスポーツ用具ポリシーとして、環境や人体への安全性の確認、多数のアスリートが容易に入手できること、そしてスポーツパーフォーマンスが身体能力によるものでありテクノロジーや用具によるものではないこと等を挙げている。とはいえ、人間の筋力の有限性にとらわれない補助具を使ったパラリンピック選手の記録は、たとえ動力が人力であるにしても、オリンピック選手に比べると、まだまだ伸びしろがありそうだ。それでも、そのもたらす結果は、弓やラケットやアイアンを使った程度の違いにとどまるのだろう。ロケット燃料を使った飛行機や核兵器の競争とは全く異なるもの。人間が内部に宿す自然の法則に基づいた、人間としての限度を超えない有限なもの。

【より人間的に】オリンピックやパラリンピックは人間社会の最大関心事の一つである。それは、たとえそれが数センチ、コンマ数秒の微微とした進歩であろうとも、人間が人力に固執し、人間の身体能力と精神力をもって到達しえる生物学的能力の限界に挑戦し続けていく意志を強く持っていることの現れでもある。人間の身体の成長や発達は、人間という生物の有限性から逃れることはできない、そしてそれゆえに、地球の有限性を脅かすものともなり得ない。スポーツは人間の内部にある人間的自然を愛し、鍛錬し、成長させることを手段かつ目的とするものである。オリンピックの金メダリストでもあるドイツの哲学者ハンス・レンク(1985)によると、クーベルタンを始め著名な哲学者たちが「スポーツの記録には自然法則的意味がある」と考えていたという。そして、レンクは「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーも、限界なき上昇と記録崇拝を意味するものならば、「人を非人道的なことへと導き、誘惑する危険に陥る」と警告し、オリンピックのモットーには「より人間的に」という目標が加えられるべきだと主張している(関根, 2019)。非人道的な手段によって生まれた記録は、もはや人間の限界を広げるものではなく、人間の境界を超えた非人間によるものにすぎないということなのだろう。

スーパーマンが、オリンピックに出られないことは、考えなくてもわかることだが。精神的なところで非人間的になったスーパーマンは、もはや「ひと(人)でなし」と呼ばれる存在となって、スーパーマンに滅ぼされる悪役として映画に登場することになるようだ。


[i] JOC – オリンピズム | オリンピック憲章https://www.joc.or.jp/olympism/charter)アクセス2022年 1月 20

Lenk, Hans. (1985). Die achte Kunst Leistungssport-Breitensport. (ハンスレンク. 畑孝幸, 関根正美(訳) (2017) 「スポーツと教養の臨界」不昧堂出版) 

関根正美. (2019). オリンピックの哲学的人間学 : より速く、より高く、より強く、より人間的に. オリンピックスポーツ文化研究  No. 4, 91─ 100.

2021年を振り返って 

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2021年一月。東京パラリンピックが目前となってくる中、ある選手の親からの手紙を理由に、知的障がい者卓球連盟のコーチ業務からはずされる。コンプライアンス委員会による調査が開始される。

コロナ禍にあって、卓球の練習の中心が、湘南台の家の近くにある岸田卓球クラブに完全に移行する。早朝のサーブを中心に一人でする多球練習を組合せて、プラスチックのボールの飛び方の感覚を身につけるように努める。練習する人も場所も減る中で、MD相模の橘川さんが練習に誘ってくれるようになり、週に2回ほど、主に午前中に練習するようになった。

2月5日。ペルー体育庁とペルー卓球連盟との共催で、Zoomを使った「障がい者のためのスポーツ」セミナーの講義を行う(スペイン語を使用)。地球の裏側のペルー国の、スポーツ関係者ら多数の参加者と直接、意見交換を行う。

2月16日と17日。ミャンマー日本人学校の生徒たちに、Zoomでゲスト講師として課外授業を実施する。小学生向けには「パラリンピック:障がい者卓球の世界。ミャンマーの障がいを持つ子供たちと卓球しよう」。中学生に対しては、「自分探し、人生探し:初心忘るべからず」という内容で話す。ヤンゴンと日本に分散して、いつ教室で会えるかもわからない子供たちと先生たち。それぞれが真剣にミャンマーの状況と向かい合っている。不思議な心と心の出会い。

3月2日。東京選手権大会がキャンセルになった代りに、東京卓球連盟が、東京優勝大会という年代別大会を東京所属の選手を対象に開催する。50代に参加した私は、準々決勝でカットの斎藤選手に3-1で逆転勝利、準決勝で(前回大会で逆転負けした)森園選手に3-0で雪辱できた。決勝は、右ペン表の名手、野中選手との対戦となる。以前0-3で敗れたことがある。サーブの回転やタイミングに合わせることができなかった記憶があり、今回はバックプッシュでレシーブから攻めていく。逆に私のサーブが効いて3-1の逆転勝利。この大会全体を見渡すと、勝敗を分けたのは、Covid-19の時期にどのように過ごしたかの違い。練習できていた人が、その成果をみせ、練習できなかった人が、その対価を払った。

4月23日。日本スポーツ仲裁機構のパネルが、最終的な仲裁判断を下す。私の申立てが全面的に認められる画期的なものとなる。

5月9日。SDGsとパラリンピックについて、友人の新井和雄ガバナーより招聘を受け、茨城ロータリークラブで講演。貧困削減や人道支援ではなく、なぜスポーツ支援なのか、という質問または疑問が出される。スポーツや文化は人間の権利であり、幸福の種なのだ。

5月18日。国連時代の環境及びNGO関連プロジェクトの現場経験から、外務省国際協力局気候変動課の担当する「脱炭素技術海外展開イニシアティブ」の外部審査委員会の委員に任じられ、その第一回会合に参加する。

5月23日。藤沢卓球選手権大会。チーム戦で優勝。

6月6日。クラブ選手権大会、東京予選。ダブルスが不調で苦戦。決定戦は、卓楓会。前回も敗れている強豪。今回は、八城選手が加わって、更に戦力増強している。1-2で、最後は椋ー八城戦と私と飯田選手。椋君がジュース・ジュースの大接戦で勝ち、私がなんとか勝利して代表権獲得。チーム戦ならではの総力戦の感動的な試合だった。

7月18日。全日本マスターズ東京予選会。順調に勝ち上がり、全勝で予選通過。

8月11日。PCR検査を10日に藤沢駅前で受ける。その結果が早朝に出る、結果は陽性であった。

8月17日。コロナ自宅療養が解除され、通常の生活に戻る。

8月28日。東京パラリンピックで卓球の知的障がいクラスにおいて、神奈川県鎌倉市在住の伊藤慎紀選手が銅メダルを獲得する。

9月11日。全日本卓球選手権大会の東京予選に出場。実業団や大学選手のプレーに接して、いい体験勉強になった。早稲田大学およびシチズン時計の後輩の応援。

10月8-10日。全日本卓球選手権大会マスターズの部(60歳以上)に参加。準々決勝で坂本選手に生まれて初めて勝利。準決勝でいつも練習している橘川さんに3-2の接戦で勝利。決勝は江浜選手。1ゲーム目を15-17、4ゲーム目を10-12で落とすも、3-2でど根性の勝利。全日本で初優勝を遂げる。

11月28日。初めて大阪マスターズ卓球大会に参加。50代の部で、第一シードにされる。50代の選手に勝ち抜き、決勝では、またも60代で年上である坂本選手との対戦。全日本の雪辱をかけてきた坂本選手に対して1-3の逆転負け。フォア前への鋭角なサーブ、回り込んでバックストレートのスマッシュ。どれをとっても精度が高く、かなりの練習量を感じる。東京選手権大会での対戦が楽しみ。

12月5日。中野卓球選手権大会、一般の部に参加。決勝まで進むことができた。準優勝。若い世代の卓球への適応力がついてきた。

12月19日。ブータン祭り。「ブータンのスポーツの未来」というZoom座談会で、「ハピネス・ファースト」のスポーツを目指すことを提案する。そして、「ハピネス(幸福量)を増やすためには、最も置き去りにされている障がいを持つ子供たちにスポーツを届けることが、一番効果的な方法である」という信念をもとに、これからもパラ卓球の支援活動を続けることを伝える。

全日本マスターズで、初優勝しました!

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10月8-10日に、福島県郡山市で開催された2021年全日本卓球選手権大会マスターズの部で、優勝という人生最高の栄誉をいただきました。コロナ禍にあって、素晴らしい大会を開催していただいた福島県と郡山市のみなさんに感謝。今回の大会では、早稲田大学同期の高田君が帯同者ということでベンチコーチを引き受けてくれて、すべての勝利の陰には、高田ベンチコーチのお叱りと時機を得たガイダンスあり。

試合の日の早朝に、安積国造神社など3つの神社にしあわせの祈りを捧げて、ご神木にエネルギーをもらいました。試合会場では、コロナで厳しい検問を受けるかと思ったのですが、健康チェックだけで係の方々に笑顔で迎えられました。1日目は2回戦から、相手の加藤選手は以前は東京にいた方で今回は北海道代表。右ペン表の異質に近い打ち方をするやりづらい戦型。サーブとプッシュで撹乱してスマッシュ一発で決めるタイプ。私のバックが固いおかげで、1ゲーム目の接戦を取り、そのまま逃げ切った。3回戦は鳥取の浅井選手。右シェークフォア表のブロックがとにかくうまい守備主戦の前陣攻守型。フォア側へドライブを打つと全部カウンターされる。バックはうまいが強打は来ない。バックへの勝負とサーブが効いた。これで1日目勝ち残り。九十九の仲間である石塚さんは第一シードに3回戦で敗れる。前々回優勝、前回も3位の大御所の河島先輩は初戦の相手に棄権されて、練習もないまま、3回戦でぶっつけ本番。私と同期の川口選手と対戦。技巧派の川口選手のサーブと攻撃に苦しみ2-3でまさかの敗退を喫する。

2日目はランク決定戦からである。朝9時開始と早いので、8時には会場入りしてウォームアップ。対戦相手の岡部選手は前回、強打の江浜選手を破ってベスト8入りした愛知県のエース。右ペン表でバッククロスへのロングサーブとフォア前に上手に落とすサーブからのスマッシュ攻撃が得意のパターン。私のサーブからの攻撃と、レシーブプッシュが功を奏して、相手のパターンにはまらずに勝ち切ることができた。これで、最低限の目標だったランキング入り。

準々決勝は、マスターズのレジェンド、常に日本のトップ選手として活躍されてきた坂本憲一選手との対戦である。坂本さんとは30年ほど前、荻村氏が主導するナショナルチーム強化対策で考案された戦型別合宿で対戦したことがある(私は当時中ペン表の前陣速攻型だった)。無論、負け。2016年に長い海外生活から日本に戻った私は、マスターズに出るようになり、これまでも3回ほど坂本さんとも対戦していただいた。無論、全敗である。それでも少しずつ試合内容はよくなってきており、あと一歩という感触はあった。対策の要として、大学同期の高田君と、私の最大の欠点であるフォア前のレシーブを徹底的に練習した。1ゲーム目5-9とリードされていたのをジュースにして、12-10で勝ったのが最大の山場。3ゲーム目もバックバックの打ち合いで私が粘って劣勢を挽回。11-9で逃げ切った。夢にまで見た、初勝利だった。

準決勝は、いつも週に3回は一緒に練習している橘川選手が、早大の大先輩である本橋選手にゲームオール8-10の劣勢から挽回勝ち、準々決勝でも西家選手に0-2からの逆転勝ちを収めて、私との対戦となった。お互いに手の内を知り合っている相手であり、これまで私が勝っているだけに、坂本選手との対戦とは逆に、私の方が受け身になってしまう。私のボールは打ち慣れている橘川選手のスマッシュやカウンターがよく入って、1ゲーム目をジュースで落とす苦しい展開。結局フルセットを戦い3-2でおそらく今大会で最も長い試合を勝ち抜けた。

決勝はマスターズの常連で、二度の優勝経験のある江浜選手。去年のチャンピオンの花木選手を破って決勝に残った。何度も同じ大会に参加したことがあるのだが、なぜか、一度も対戦したことがない。右ペン裏の典型的なドライブ主戦型。しかし、プレーしてみるとバックハンドの威力と安定性が半端ないことがすぐにわかった。とにかくドライブのラリー戦になると3発4発打ち続けても必ず盛り返されて負ける。かなり勝ち目のあった1ゲーム目を15-17で落として、もの凄く苦しい展開となる。ドライブのラリー戦では勝てない。スマッシュに切り替えろ、という高田ベンチコーチの指示。ドライブを打っても台から離れず、バックブロックとフォアハンド・スマッシュ狙い。大学時代の中ペン表のときのスタイルである。じつは、この戦術は、裏ソフトに変えて以来、試合では使ったことがなかった。この戦術の切り替えが功を奏して、ラリー戦で有利となる。しかし、スマッシュですら連打しないとポイントにつながらない。とにかく、足を止めず、常に動き続けることで、スマッシュの精度を高め、打ちミスをなくすことに努めた。ゲームの合間でも一度もベンチに座らず、足踏みを続けながら、アドバイスを受けた。フルゲーム11-8で勝利する鍵はこれまでの練習量と高田ベンチコーチとの二人三脚がうまく機能したこと。レジェンドで尊敬する坂本選手や驚異的な脚力とラリーの強さが群を抜いている江浜選手と戦って、優勝という栄誉をいただくことができたのは、ホントにありがたいことだった。

この勝利を真っ先に捧げたいのは、8月18日に天に迎えられた岸田クラブの岸田晃先生である。岸田道場は私の第二の家ともいえる場所であり、朝練や夜練で、岸田先生とは毎日のように顔を合わせ、卓球談義していた。コロナ禍にあって練習が続けられたのも、岸田先生のおかげだった。私が、常日頃、目標にしていた全日本マスターズでの優勝を、岸田先生が一番喜んでくれているに違いない。合掌。 

今回の全日本マスターズでは、多くの大学時代からの友人らと出会い、語らい、そして戦った。みんなプレーは真剣そのもの。互いの卓球技術の戦いもあるが、じつは意地と意地の戦いであり、この歳になると体力と体力の戦いである。今回は、最後まで足がよく動いてくれて、優勝までの道のりを走りきってくれた。九十九クラブのみなさんにも多大な支援、ご声援をいただいた。ホントにありがたいことで、優勝という成果をあげられたことが何より嬉しい。明日からも卓球と人生を楽しみましょう。

https://world-tt.com/blog/news/archives/12933

https://jtta.or.jp/news/3441

Happy Father’s Day

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I got wonderful presents from the hearts of my kids.Nice to be recognized as the father of someone young and I love most since they were born. Hopefully, I can still do something as their proud and only father. Today, I can only thank my daughters and sons and my wife who made me a proud father.

母の日が太陽とすれば、父の日って月ですよね。バレンタインデーのお返しのホワイトデーみたいなものかな。それだけに、子どもたちからプレゼントなんてもらうと、とびっきり嬉しくなってしまいます。家族ってありがたいですね。ハッピー父ちゃんの日でした。

林住期(50~74歳)は人生の黄金期?

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林住期って何だろう?

五木寛之さんの「蓮如」を読んで、御文の誕生と妻の死に面して大泣きする人間らしい情のかたまりであることをためらわない生き方に共感を覚えた。そして50歳を迎えた頃に五木さん著の「林住期」と出会った。人生50年と舞った信長の時代から太平洋戦争の頃まで、日本人の寿命は50年だった。今や、平均寿命は80歳を越え、100歳以上も珍しくはなくなった。そう、これからは人生100年時代になるのだろう。

人生を起承転結、春夏秋冬のように4つに分ける考え方が、古代インドにあったそーな。人生100年とするなら、1-24が「学生期」25-49が「家住期」50-74が「林住期」75-100が「遊行期」である。

学生期に人生の準備をして、家住期に勤務を果たし、林住期で自分のために人生を使い、遊行期で余生を楽しくすごす。家住期において、国家社会・家族などに対する責務を果たして、その後の暮らしが成り立つように頑張れば、林住期では、自分の人生の目的・夢・やりたいことを中心に生きる、いわば人生の黄金期、飛翔(ジャンプ)を可能にする、と五木さんはブッダに代わって説くのである。

34歳にして国連に入り、49歳になった私は、その頃ミャンマーにいて、14万人の命を奪ったサイクロン・ナルギスからの復興支援を行っていた。まだ、子どもが学生であり、経済的にもゆとりもなく、家住期の責務を果たしきってはいなかった。かといって、このままでは、林住期の人生を謳歌することはできない。55歳になったら、ミャンマーで孤児院をつくって、スポーツを教えてチャンピオンを育てよう。そのための準備を始めなくては。そんなことを考えていた。

鹿児島の南さつま市の津貫という過疎の村が私の故郷である。国連を早めに退職するきっかけの一つは、父の他界と母の認知症だった。息子が国連で働くことを喜んでいた両親への孝行もそろそろ形を変えていい時期にきていた。4人の子供らも大学を卒業した。私は、日本に帰国して、子供らと交代するように、大学院に入って、久しぶりに、キャンパスライフとやらをやってみた。卓球を再開し、九十九というクラブに入って、50代の試合に出場するようになった。ペルーに30年ぶりに招かれて、ナショナルチームのコーチとして、パンアメリカ大会とボリバリアーノ大会にも参加した。日本知的障がい者卓球連盟のコーチをほぼボランティアで始めて、数々の国際大会とアジア選手権や世界選手権も経験することができた。

ミャンマーの孤児院もいくつか訪問したが、結局、障がい児センターで、スポーツを導入するプロジェクトを立ち上げることとなった。

それでも、2-3年の間は、自分が有意義な人生を送っていないのではないか。また仕事を見つけて働くのが、あたりまえではないか。などという疑念が、常に頭の中をウロウロ歩き回っていた。

有言実行型をめざして一つだけ宣言したことがあった。それは「歳を取るのをやめる」である。

私は、国連という職場のなかで、常に若く、青く、軽く、見られていた。少なくともそう感じたし、そういう反応ばかりが、ネガティブに私には伝わってきた。そこで思いついたのが、髭を生やすこと。とにかく年長に見られたい。その一心だった。林住期に入った今、職場にも復帰する気がなく、自分の等身大の人生を歩むことにしたのだ。だったら、歳を取る必要もないし、取るだけ損だ。というわけで、歳については、進む針を凍結することにした。

今のところ、その成果は上がっている。ほぼなくなりかけていた前髪が少し戻ってきた。筋肉もついた。人格は、相変わらず、青二才だが、そんな大人になれないでいる自分に、平気になってきた。

林住期を楽しむ準備がやっとできたようだ。

玉手箱を開けないように。

四住期は「しじゅうき」と読みます。古代インドの社会的な規範を記した聖典「マヌ法典」により、四住期という考え方は生まれました。人生を、学生期(がくしょうき)・家住期(かじゅうき)・林住期(りんじゅうき)・遊行期(ゆぎょうき)の4つにわけて、それぞれのステージにおける規範に即した生き方をすることで、幸せな人生を送れるとされています。

藤沢卓球選手権大会 優勝

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初めて、私の住んでいる藤沢市の卓球大会に参加しました。

場所は秩父宮記念体育館 メインアリーナ。由緒ある体育館のようですね。入り口にあった紹介によると、秩父宮は昭和天皇の一歳下の弟でスポーツマンだったとのこと。当時のしきたりで軍隊でも従軍されていたそうですね。

試合は、50歳以上の部、団体戦。1-4番までシングルス戦で、2-2の場合には、両チームの代表選手同士で1ゲームの試合を行って勝敗を決着するという、Tリーグに似たやり方である。

私のチームは、私(九十九)、渡部さん(MD相模)、金田さん(AJ)、脇田さん(夢想塾)という全員違うクラブの人が集まった、練習友だち同士の雑多集団である。みんな、かなりの実力者で、予選一位通過して、決勝トーナメントの一回戦も苦戦しながらも3-0で準決勝へ。

藤クラブは、60代以上が集まったベテランチーム。楽勝かと思いきや、思わぬ粘り腰と勝負に賭ける執念の強さで2-0から挽回されて2-2に持ち込まれた。ここで代表戦で1ゲームで勝敗を決することとなる。私の相手は、なんと斎藤龍二さん、早大卓球部の大先輩である。s49卒で、私はS58 卒だから、11も年長であられる、雲の上とまではいかなくても、霞の上ぐらいの存在の方である。対戦するのは無論初めて。斎藤さんは、3番手の試合で、我がチームのエース級である渡部さんにフルゲームの4-8の劣勢から大逆転して粘りのあるプレーと強い精神力を見せていた。2-2のラストでの1ゲーム決着は初めての経験で、緊張する。試合は5-5まで接戦。それから、私がサーブから3球目を打ちまくり、若い?分だけの差を利用して逃げ切れた。技術的には全くの互角。

決勝は、常勝チームの日産追浜が出てくるかと予想された。しかし、50代の多い鶴間公園倶楽部が3-1で日産追浜に勝ち、決勝で予選に続き2度目の対戦となる。山田さんという若手?の選手と対戦し、1-2ゲーム目は接戦となり、辛くもサーブ力で逃げ切り、3ゲーム目はそのまま押し切った。結果は3-1の勝利。目標の優勝を果たせた。

クラブが違う者同士で、団体戦を戦うのも新しい発見があって、楽しい。

賞品はニッタクのシャツ。JTTAAはついていないので練習着に使おう。

コロナの影響で、こうしたスポーツ大会を運営するのも気苦労の多いところ。

運営関係者には感謝しかありませんね。

心一郎の結婚式

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Shinichiro, the eldest son, has got married with Noriko-san, a Japanese lady. They have a lot common and plan to establish a warm and loving home and creative life. Shin (心)means the ‘heart’ and Shinichiro has proven to be a warm-hearted and a gentle promising young man who can connect people beyond various barriers. Congrat Shin and Noriko-san for the marriage and look forward to your forming a new loving and happy family!

長男の心一郎と紀子(旧姓中村)さんが、本日4月25日、平成の最後の大安の日に、鶴岡八幡宮にて挙式をあげました。雨上がりの新緑の萌えるすがすがしい境内で、おごそかな式をタイムスリップしたような気分で楽しませていただきました。心ちゃん、紀子さん、おめでとう。しあわせ一杯の家庭を育んでください。

スポーツをできる幸せ、スポーツでつくる幸せ

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リオ・オリンピックでは、これまでで最高の41個のメダルを日本選手たちが獲得した。次の東京オリンピック・パラリンピックに向けての重要な道標であり、とても良い形のジャンプ台となった。長期的な展望がスポーツ界の人材育成にも目に見える良い効果をもたらすことの証明だろう。

Sport for Tomorrowは東京オリンピックまでに日本のスポーツにおける国際貢献を増やし、100カ国1千万人に対して実施しよう、というプログラムである。日本がオリンピックを東京に招致する際に表明した公約の一つである。青年海外協力隊、草の根無償援助、身障者リハビリセンター支援、企業による社会貢献型支援、スポーツNPO支援など官民財を通じて盛り上げようとしている。しかしこうした国際貢献の効果は、簡単に測定できるものではない。長期的なスポーツの発展とそのスポーツの社会経済文化への貢献度の極大化が求められている。国際的には、国連が、平和と開発のためにスポーツを活用しようというキャンペーンを行っている。

リオ・オリンピックでは史上初めての難民選手団が結成されて、10人の選手が参加した。国籍を問わず、ブラジルや世界中の市民の注目と声援を受けた。オリンピックの参加組織は国家に限定されていない。そのユニークな伝統を活かしたIOCの英断である。オリンピックに向けてこうした国や施設のない子供やアスリートに対するサポートを実施することは、一つの重要な支援分野となるだろう。これは難民の若者に夢と機会を与えるとともに、難民の置かれた環境を世界の人々に知らしめる絶好の機会ともなっている。難民の彼ら彼女らにとっては、スポーツができる幸せを痛感するオリンピック参加となった。その一方で、難民選手団の活躍を見ている側の私達にとっても、スポーツによる幸せづくりの可能性を見出す新たな契機となった。

オリンピックの招致合戦から、東京都都知事選、東京オリンピック・パラリンピックに向けての景気の底上げなど、スポーツの経済効果、政治への影響度についてはよく知られている。そのスポーツの社会・経済・政治・文化への貢献能力をフルに活性化させようとする動きが、Sport for Peace and Developmentであろう。人間中心の開発(Human Development)という観点から見ると、スポーツを通じた心技体のバランスのとれた発達と人格の形成を図るということが重要となる。

日本のスポーツ基本法(平成23年施行)はその第2条で、「スポーツはこれを通じて幸福で豊かな生活を営むことが人々の権利である(以下省略)」と謳っている。スポーツができる権利はもとより、スポーツをつうじて幸福な生活を営む権利を認めている。スポーツをする機会を与えるだけでなく、そのスポーツを通じて如何に恵まれない子どもたちや地域の幸せづくりに貢献できるのかという視点が、スポーツによる国際・国内協力にも求められているということだろう。