開発
インクルージョン出前授業 in 松山/Lecture on “Inclusion through sports” in Matsuyana
トライアスロンの選手でAmic英会話学校のオーナー社長である玉井里美さんとご一緒に、松山の小学生向けに「パラスポーツで共生社会を実現しよう」というテーマで、お話と実技を含めて2時限を使って講演を行いました。講演(出前授業)を行ったのは、内子町立内子小学校、愛媛大学教育学部附属小学校、東温市立南吉井小学校、松山市立立花小学校の4校で、4年生から6年生、総計400名ほどが参加してくれました。また一般の方々を対象に、愛媛県生活文化センターにて 「スポーツと国際理解から学ぶインクルージョン」をテーマに講演しました。愛媛の子どもたちはホントに屈託なく、ハツラツと自分の考えを発言し、活発に質問し、自由な参加型の授業となりました。わたしたちもたくさん元気をもらいました。サインを求める子どもたちが長い列をつくって並んだのには、こちらもビックリ。今日のささやかな出会いと学びが、これから、いろんなちがうバックグラウンドをもった人たちと交流するキッカケになるとありがたいですね。招待してくれた玉井さん、小学校の関係者のみなさん、タンデム自転車NGOの津賀さん、松山のみなさまに感謝申し上げます。
Together with Mrs. Satomi Tamai, the President of Amic International and Triathlete, I shared my thought and experience with around 400 students of four primary schools on “promoting para-sports to create inclusive society” in Matsuyama, Toon and Uchiko cities. Students were very interested, vocal and pro-active sharing their views and participating in para-sport activities. We were asked to give our autographs to a hundred of students. I hope that this small encounter will give them a bit of courage to interact with people with different abilities and background in future. I thank Mrs. Tamai and wonderful students and teachers for their invitation and hospitality. The place is very famous of onsen (hot spring) and beautiful nature.




盛岡第四高校にて「人生開発」について講演させていただきました
I had a big pleasure to meet with 500 students of Morioka high-school in Eastern Japan where I shared my experience in the UN and talked about how to move one’s human life forward overcoming adversities. I sincerely thank our youth to have given me lively responses and new energy to start a new year of my life. Thanks everyone my friends giving me heartfelt birthday messages. Our lives will go on.
昨日、盛岡第四高校の生徒の皆さんにお話する機会をいただきました。私の幼年時代から国連の人道支援や貧困削減などの現場の体験を1時間半近く話し続けてしまいました。卓球部の部員と練習もさせていただきました。若い世代からまた新たな元気をもらいました。君たちはどう生きるのか、について考える何らかの手助けにしてもらえればありがたいことです。
キャリア形成 元国連職員語る 盛岡の高校:写真 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

「平和と復興支援を考える(How can peace building be supported?)」
友人のDr新井和雄さんの依頼で、久しぶりにスーツを着て、国連時代の平和構築に関する経験を話してきました。下館ロータリークラブは、ネパール地震や能登半島地震の被災地支援や植林・清掃活動など積極的な国際協力や奉仕活動を行っています。ロータリーはポリオ撲滅にも尽力しており、いまだにポリオが残っているパキスタンとアフガニスタン国境地域の平和・復興支援の経験などについて話しました。またいつか現地を訪ねることができるといいですね。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」(ユネスコ憲章前文より)
“since wars begin in the minds of men and women, it is in the minds of men and women that the defences of peace must be constructed.” (Preamble to the Constitution of UNESCO)
(minds of menに最近、and womenが加えられ、女性の平等で公正な役割が憲章の中で認識されるようになった)



ペルーJICA海外協力隊派遣40周年OVインタビュー その3/ Entrevista conmemorando el 40 aniversario del JOCV: Sr. Toshihiro TANAKA (III)
3.当時の隊員の経験が今現在の自分に与えている影響はなんですか(帰国後の進路に与えた影響、仕事や生活をする上での変化、物事への考え方や価値観など)
大学時代は新聞記者になろうと思っていた。面接で目標の新聞社に落ちて、海外で生活したいと思い協力隊を考えた時は、実は難民キャンプで働こうと思っていた。大学一年の頃はカンボジア難民を救う会で活動した時期もあった。実業団入りを断って卓球と違う道を歩もうとしていた私が、協力隊に参加する道は、結局卓球隊員になることだった。ペルーでナショナルチームを引率するようになり、メディアの人々とも接する機会が増えた。いつしか取材する側よりも取材される側になりたいと思うようになっていた。日本に帰国した途端にただの人になった。国際協力を続けたかったが、スポーツ分野では可能性が閉ざされていた。私は企業を退社し、協力隊調整員としてドミニカ共和国に赴任した。その後、アメリカ留学して修士課程を修了し、幸運にも国連開発計画(UNDP)に合格することができた。ペルーの仲間に卓球していればいつか再会できると約束した私は、休みを利用して卓球活動は続けていた。パキスタンでは平和復興のためのスポーツの祭典事業を実施した。国連を早期退職した私に、ペルーの元選手たちからナショナルチーム強化のための改革を依頼されて32年ぶりにコーチとして迎えられた。日本の知的障がいパラ卓球のコーチをしていたので3か月間だけだったが、立派になった選手たちとの再会は本当に感動的だった。南米チャンピオンだったモニカ・リヤウさんは、「Impactando Vida」という卓球普及プログラムを全国100校以上で展開する女性企業家として注目されている。「目標を定めて努力することが当たり前になった」ことが私から学んだ成功の秘訣だとある貧しかった選手から伝えられた。私はこれから障がい者スポーツと生涯卓球と幸福をテーマに白球を追って途上国に行きたいと考えている。




Foto 3. Agosto de 2011. “Spirit of SWAT“ en Pakistan
Please see the link here https://happy-development.com/spirit-of-swat-2/
3. ¿De qué manera influyó o influye actualmente en usted la experiencia como voluntario JICA en el Perú?
Cuando estaba en la universidad, pensaba convertirme en periodista. Pero cuando no pasé la entrevista de trabajo en el diario Asahi, quise trabajar en los países en vías de desarrollo y por eso pensé postular a los Voluntarios, con la idea de trabajar en un campamento de refugiados. Durante mi primer año en la universidad participé en grupos que ayudaban a refugiados de Camboya. Al final me convertí en Voluntario en tenis de mesa. En el Perú comencé a conducir el equipo nacional y aumentaron las ocasiones de tomar contacto con las personas de los medios de comunicación. En cierto momento, empecé a sentir que antes que hacer las entrevistas, me gustaría más estar del lado de los que son entrevistados. Regresando a Japón, instantáneamente volví a ser una persona más del común. Quería seguir en la Cooperación Internacional, pero las posibilidades en el campo del deporte eran nulas. Me retiré de la empresa Citizen y fui destacado a República Dominicana como Coordinador de Voluntarios. Posteriormente, estudié en Estados Unidos y obtuve mi post grado y por suerte aprobé el ingreso al Programa de las Naciones Unidas para el Desarrollo (PNUD). Yo había prometido a mis compañeros de Perú que, si seguíamos practicando el tenis de mesa, algún día nos reencontraríamos, por eso en mis días de descanso continué con las actividades de este deporte. Por ejemplo, en Paquistán, hicimos un proyecto deportivo para la pacificación. En Bután, formé el equipo nacional de tenis de mesa y dirigí el equipo butanés en los juegos del Sur de Asia. Luego de retirarme de las Naciones Unidas, recibí el llamado de los ex jugadores de Perú que me pedían realizar una reforma para fortalecer la selección nacional, y es así como 32 años después, regresé como entrenador. Como en Japón me encontraba dirigiendo el equipo nacional de paratenis de mesa con discapacidad intelectual, sólo pude ir por tres meses, pero el reencuentro con los ex deportistas ahora ya adultos, fue realmente emotivo. La ex campeona sudamericana Mónica Liyau se había convertido en una empresaria que concita la atención por el programa de difusión del tenis de mesa llamado “Impactando Vidas”, desarrollado en más de cien colegios del país.
Hace un tiempo, un jugador de origen humilde me dijo “‘Fijar un objetivo y esforzarme para alcanzarlo, se me ha vuelto natural’, ése es el secreto del éxito que aprendí de usted”. Pienso continuar dedicándome al deporte para personas con discapacidad, al tenis de mesa de por vida y a la felicidad, como temas y deseo seguir yendo a los países en desarrollo, siempre en pos de la blanca pelotita.
A watermelon, three old friends and the Great Buddha of Kamakura (西瓜と3人の協力隊の旧友と鎌倉の大仏)
A watermelon, three old friends and the Great Buddha of Kamakura.
西瓜と3人の協力隊の旧友と鎌倉の大仏
Three friends who met in the training camp of Japan Overseas Cooperation Volunteers (JOCV) 40 years ago in 1983, met together and visited the Great Buddha today. Four decades back, Mr Kuribayashi served in Costa Rica, Mr. Ozawa served in Morocco, and I served in Peru as a ping pong coach. I believe, we have had good karma with good fate. For that, I thank you all. The Great Buddha is looking handsome as usual in front of a big watermelon.
Greetings with my wish to you all to keep healthy and happy in the truly hot summer season!!
暑中お見舞い申し上げます!


Transforming Nepal through Sports (ネパールをパラスポーツで変革しよう)
Heartfelt message from Nepal !! for the table tennis materials donated to support a wonderful initiative of Transforming Nepal through Para-Sports by Inclusive Sport Club.
ネパールのみなさんからの感謝のメッセージです。「パラスポーツでみんなが幸せな社会をネパールで実現しよう」というキャンペーンを支援させていただきました。皆さん、ご協力ありがとうございます。


日本知的障がい者卓球連盟に対する裁判
私、元日本知的障がい者卓球連盟コーチの田中敏裕と知的障がい卓球代表選手の帯同コーチで同連盟の正会員でもある岸本昇子氏は、東京地方裁判所において、名誉毀損、性的マイノリティ(LGBT)に対するジェンダーハラスメント、パワーハラスメント、業務妨害等の事由による損害賠償請求の訴訟を日本知的障がい者卓球連盟の複数の理事および連盟に対して起こしました。
これまでの主な経緯は、
日本スポーツ仲裁機構の仲裁判断について « Happiness via Ping Pong (happy-development.com)
これまでの経緯について « Happiness via Ping Pong (happy-development.com)
で説明したとおりです。
最終判断とされる日本スポーツ仲裁機構の仲裁判断は以下のとおりです。
主 文
本件 スポーツ仲裁パネルは次のとおり判断する。
1 被申立人が 2020年 7月 29日に行った、申立人を一般社団法本知的障がい者卓球連盟賞罰規程第 7条 1項(4)にいう指導の処分とするした決定を取り消す。
2 被申立人が 2020年 8月 23日に行った、申立人を被申立人における 2020年度のコ ーチとして任命しないとの決定を取り消す 。
3 仲裁申立料金 55,000円は、 被申立人 の負担と する。
このように全面的に私の申し立ての正しいことが認められました。にも関わらず、その3日後に、日本知的障がい者卓球連盟理事会は、私を連盟コーチとして非継続とする決定をくだし、私は正式に連盟より排除されることとなりました。その後に行われた社員総会においても、本件に関するメディア等への公開説明や私に対する謝罪を問う社員に対して、「必要はない」と回答し、私のコーチとしての資質に疑義を呈する発言もありました。当理事会は数年前の私の社員申請を却下しており、私には、総会に参加して弁明するすべもありません。日本スポーツ振興センターや再度スポーツ仲裁に訴える権利もなく、今回、東京地裁における訴訟にいたりました。
岸本昇子コーチは、当理事会の承認を受けた、一般社団法人日本知的障がい者卓球連盟の女性正会員(社員)です。国際大会への参加登録の際にも、当連盟事務局を通じて女性として登録されています。にもかかわらず、連盟内の会議において”男性”であると見做され、”おかま”等と揶揄するなどの言動が理事にみられることに、深く心を痛めておられました。このような、性的マイノリティに対するハラスメントにあたる行為が許されるものではないことは、近年、日本社会にも浸透しており、スポーツ界においても基本原則であり、常識であるべきことでしょう。
知的障がい者卓球に夢を抱いて、ピンポンにいそしむ子供たちや家族が、差別や不利益を受けず、平等に公正で適切なケアやサポートを受けられる体制をつくることは、知的障がい者スポーツ関係者の真の願いであり、ノーマライゼーションに向けた日本社会の目標でもあります。そういうパラスポーツの世界へと小さくとも正しい一歩を踏み出すきっかけとなれば、ありがたい、と思います。
4月25日、東京地方裁判所8階803号法廷において、第一回口頭弁論が開かれました。
裁判長:成田晋司 裁判官:萩原孝基 裁判官:吉田怜美
原告訴訟代理人:大沼宗範
被告連盟訴訟代理人:安藤尚徳 長谷川佳英
被告 A, B, C, 訴訟代理人: 斉藤真代
共有:Happy Ping Pong
スポーツ文化は、人間にとって「自然」なもの
人類史上「肉体的・精神的進歩があったと想像すべき保証がない」というトインビーの指摘は、現代において誤りであると言えるかもしれない。なぜなら、オリンピック記録の漸進的な更新の他にも、生物にとって最も大事な指標の一つである寿命において、人類は20~35年という平均寿命から、1900年に先進国で40~50年程度に延び(ウィルモス, 2010)、2000年には世界の平均寿命が66.8年に達し、その後のわずか20年間で73.3年にまで延びているのである(WHO, 2021)。これは多分に医学の進歩と言えるが、寿命という人間の生物学的限界が著しく更新された事例と考えてよいのではなかろうか。他にも近年の貧困の削減と栄養状態の改善によって、人間の平均身長にも顕著な伸びが見られる。健康や身体機能に関するスポーツの効果は誰もが認めるところであり、人間の健康寿命の更新に対するスポーツの貢献が期待されている。
日本のスポーツ基本法(2011)は、その冒頭において「スポーツは、世界共通の人類の文化である」と宣言する。レンク(1985)は、『人間における「自然性」とは、「文化」のことである。まさにそれは「第二の自然」と呼ばれるものである。これはとりわけ、スポーツにあてはまる。』と述べている。人間(肉体)における生物学的自然が第一の自然であり、第二の自然である「文化」は主として人間の精神的世界に関わるものと考えるのが自然だろう。オリンピズムがフェアープレーや平和な文化・社会の構築という基本理念を掲げているにもかかわらず、営利主義、勝利至上主義、政治的利用などにスポーツが振り回されてきている実態は、古代オリンピックから近代オリンピックにいたるまで変わってはいない、おそらく深刻化している。
しかしながら、未来への希望がないかというと、そうでもないだろう。たとえば、古代オリンピックでは殺人は認められていなかったとはいえ、競技において多数の死傷者が出る危険は参加者も審判も承知の上であり、実際に多くの若者の生命が失われている。近代オリンピックにおいては、オリンピアンの競技における怪我はかなりの頻度で起こるとはいえ、死に至ることは稀有である。競技者の生命や安全の確保という倫理的基準・価値観を参加者も聴衆も共有するようになったのは、一つの前進といえるのだろう。
スポーツと人権・環境・開発
【スポーツする権利】
スポーツと国連や国家の開発政策との結びつきは比較的新しい。国連ではユネスコが、1952年からスポーツをそのプログラムに取り入れるようになり、国家としてはドイツが1960年に「スポーツフォーオール」を推進する国家プランを立てている。これが基になって、1975年のヨーロッパスポーツ・体育担当大臣等会議において「スポーツフォーオール・ヨーロッパ憲章」が採択され、1978年の第20回ユネスコ総会において、「(第1条) 体育・スポーツの実践はすべての人にとって基本的権利である。」ことを宣言する「体育・身体活動・スポーツに関する国際憲章」が採択されている。この国際憲章の前文の中で「 体育・身体活動・スポーツは、自然環境において責任をもって行われることで豊かになること、ひいてはそれが地球の資源を尊重し、人類のより良い利益のための資源保護と利用への関心を呼び起こす」[i]と述べrられており、この体育・身体活動・スポーツに関する国際憲章が持続可能な開発(SDGsや地球憲章)と共通する理念を持つものであることが理解できる。
【スポーツと地球環境】
しかるに、肥大化・商業化を続けてきたオリンピックの現実は、1990年までは環境保護団体などからの非難を受け、開催地の選択にも滞る状況だったのである。リオで地球環境サミットが開催された1992年のバルセロナ・オリンピックにおいて、全参加国のオリンピック委員会が「地球への誓い(The Earth Pledge)に署名し、世界のスポーツ界も積極的に環境に取り組む意志を示す。そして、1994年のIOC創立100周年を記念するオリンピックコングレスにおいて、オリンピック憲章に初めて「環境」についての項目が加えられ、“スポーツ”、“文化”、“環境”は、オリンピック・ムーブメントの三本柱とされた。1995年にIOCは「スポーツと環境委員会」を設置し、以後、「IOCスポーツと環境世界会議」を定期的に開催している。20世紀初頭に、クーベルタンらによって復興した近代オリンピックは、第一次・第二次世界大戦による中断に見舞われながらも、国際社会の平和を促進するメッセンジャー的な役割を担い、1999年には「オリンピックムーブメント アジェンダ21(持続可能な開発のためのスポーツ)」[ii]を採択し、スポーツの地球環境保全に向けての行動指針を明らかにしている。
【MDGs・SDGsの手段としてのスポーツ】
21世紀に入ると、スポーツを主要な目的として、平和教育や環境保護といった目的との協調をはかるIOCに代表される従来のアプローチに加えて、開発や平和という目的を達成するための手段としてスポーツに期待する国連に代表されるアプローチが顕著になってくる。2001年にコフィ・アナン国連事務総長が、スイスのアドルフ・オギ前大統領を「開発と平和のためのスポーツ」特別アドバイザーに任命し、2002年には、国連組織間で開発と平和のためのスポーツ・タスクフォースが結成された。当タスク・フォースは、翌2003年に「開発と平和のためのスポーツ:ミレニアム開発目標(MDGs)達成に向けて」と題する報告書を作成し、その中でスポーツを、MDGsを実現する上で「コストが安く、効果も大きく、強力な手段である」と規定している(内海, 2016)。また、同年、国連総会は、「教育,健康,開発そして平和を促進する手段としてのスポーツ」と題する決議を採択し、2005年を「スポーツと体育の国際年」と定めて、その啓蒙と実践に努めることを提唱する。2009年にIOCは国連総会のオブザーバーとしての地位を承認され、国連とIOCの協力関係が更に強化される。MDGsを引き継いだSDGs(2030アジェンダ)の中でも、SDGsを達成する上で、スポーツは以下のような貢献を期待されている。
37.(スポーツ)スポーツもまた、持続可能な開発における重要な鍵となるものである。 我々は、スポーツが寛容性と尊厳を促進することによる、開発及び平和への寄与、また、 健康、教育、社会包摂的目標への貢献と同様、女性や若者、個人やコミュニティの能力強化に寄与することを認識する。[iii]
[i] 文部科学省(https://www.mext.go.jp/unesco/009/1386494.htm)アクセス2022年1月10日
[ii] 日本オリンピック委員会 (https://www.joc.or.jp/eco/pdf/agenda21.pdf) アクセス 2022年1月20日
[iii] 国連広報センター https://www.unic.or.jp/activities/economic_social_development/
sustainable_development/2030agenda/ アクセス 2022年1月10日
オリンピックは世界の平和に貢献できるのか。
【オリンピック休戦】オリンピックとは、4年に一度、古代ギリシャのエーリス地方のオリンピアで開催されていたオリュンピア祭典競技を指し、今から2800年前の紀元前8世紀から紀元後4世紀までおよそ千二百年もの歴史を持つ。この大会の開催中の1ヶ月間(のちに大会前後を含む3ヶ月間)は、紛争の絶えなかった全ギリシャ諸国間において「エケケイリア」と呼ばれる休戦義務が課されていた。違反国には罰則規定も設けられていたこの休戦協約の効力は強く、古代オリンピックの定期的かつミレニアム(千年)にわたる開催を可能にした。オリンピックが「平和の祭典」と呼ばれる由縁でもある。
しかるに、近代オリンピックの比較的短い歴史の中では、第一次世界大戦および第二次世界大戦が起こり、休戦どころではなく、すでに夏季・冬季合わせて5回にわたって、オリンピックの方が中止されている。この古代オリンピックの休戦協定をモデルとして始められたのが、1993年の国連総会における「オリンピック休戦の遵守(Observance of the Olympic Truce)」の決議である。この「オリンピック休戦宣言」は、1993年以後、毎回の夏季・冬季オリンピック大会の前年に国連総会において決議されている。罰則や強制力のないオリンピック休戦の効力については、残念ながら、肯定的な評価は少ないようだ(谷釜, 2020)。しかしながら、紛争の絶えることのない世界であるがゆえに、「オリンピック休戦」に象徴されるようなスポーツによる平和への貢献の意義や期待は決して減るものではなく、一層増しているとも言えるのである(谷釜, 2020. 桝本, 2020)。
【難民とオリ・パラ】東京オリンピックをテレビ観戦していた私に、とまどいと感動を与えたシーンがあった。それは男子マラソンのゴール直前の出来事だった。2位集団から抜け出したナゲーエ選手(オランダ)が、何度も後ろを向いて手招きする素振りをみせたのだ。通常ならば、後ろを見て追いつかれないように走る場面なのだが、彼は、違う国を代表するアブディ選手(ベルギー)に、一緒にゴールを目指そうと手を振っていたのである。アブディ選手は懸命に追いかけて、ナゲーエ選手と二人で2位と3位でフィニッシュして、表彰台に並び立った。彼らは、同じソマリアを祖国とし子供の頃に内戦から逃れてヨーロッパに移住した難民であり、親友だったのだ。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の報告[i]によると、祖国にも帰れず、移住もできずに、無国籍状態となっている難民が、世界には2千6百万人(2019年末時点)いる。ソマリア難民だったナゲーエ選手やアブディ選手は、移住先のオランダとベルギーで国籍を取得して、それぞれ移住した国の代表としてオリンピックに参加することができた。しかしながら、数千万人もの無国籍状態にある難民たちには、そもそも所属するスポーツ組織もなければスポーツできる環境もないのである。2015年、IOCはこの難民という境遇にある人々に対して、オリンピックの扉を開き、2016年のリオ・オリンピックに難民選手団が初めて参加するというドラマが生まれた。2021年の東京大会においても、オリンピックとパラリンピック双方に難民選手団が結成され、メンバーに選ばれた難民選手たちは、様々なホスト国で東京大会に向け練習を積み、東京大会で活躍し、注目を集めた。IOCは、オリンピックやパラリンピックに難民であるアスリートが参加できる道を開いたばかりではなく、難民選手団のメンバーとなるアスリートの選考や育成まで積極的にサポートする体制を構築した。難民選手団のオリンピック・パラリンピック参加は、難民問題に対する人々の認識を深め、オリンピック・パラリンピックが平和の祭典であることを知らしめ、国連ともコラボするIOCのベスト・プラクティスの一つとなっている。
[i] UNHCR, Global Trends -Forced Displacement in 2019
舛本直文. (2020). オリンピックの平和運動:その理想と現実 オリンピックスポーツ文化研究, No. 5(23─ 36).
谷釜了正. (2020). スポーツと平和 ─オリンピックは平和の使者たりえたかー. オリンピックスポーツ文化研究, No. 5 1 ─ 9.