Essay
読書:「朝が来る」 辻村深月
久しぶりにAudible。
これは子どものできない夫婦が、不妊治療をあきらめ、望まれずに生まれたきたばかりの赤ちゃんを養子として迎えて育てていく過程を描いた物語だと思って聴いていた。養子縁組を世話するベビーバトンというNPOの代表は、その本質を「親が子どもを探すのではなく、子どもが親を探すためのものなのです」と言う。第一に考えていることは「子どもの命を守ること」。NPOに養子をもらうことを登録するとき、普通といわれる環境で生まれてくる赤ちゃんではないこと、自分が妊娠したときと同様に子どもの性別や障がいの有無について問わないこと、養子であることを子ども本人にも周囲にも話して育てることなどの説明がなされる。それらを飲み込み、周囲の反対や自身の葛藤があっても、赤ちゃんを見た瞬間に一目惚れするという。夫婦にとって「朝が来た」と感じる、この本のタイトルである、瞬間である。この物語の夫婦は子どもに「二人のお母さんがいるんだよ」と生みの母親のことを大切な存在として伝えて育てる。それは心温まる物語だった。
突然、話は子どもの生みの母親である中学生の女の子に移る。普通の中学生だったはずのもう一人の主人公は、ボーイフレンドとの間で初潮前から性体験をもつようになる。そして体調をくずして診断を受けたときに、病院に呼ばれた母親の前で、医師から妊娠を告げられる。少女はベビーバトンの世話になり、出産までの寮生活のときに母親になりたくない妊婦たちとの交流を経て、両親や姉に付き添われて、赤ちゃんの顔を見ないようにして、この夫婦にわたした。親と学校の敷いたレールの生活に嫌気がさした少女は家出をし、家庭生活も学校生活もない、暗いひとりきりの生活へと落ちていく。ヤクザまがいの男たちに、なってもいない同室の女の保証人として借金返済を迫られ、逃亡。結局、その男らに見つけられ脅されて、事務所からお金を盗む。盗んだお金の返済のためのお金を工面しようと向かったのが、生んだ子が養子となった夫婦の家だった。その家庭では、その子を生んだ「お母さん」が、家族の一員であるかのように話されていた。お金をせびりにきた自分がその「お母さん」であるはずはなかった。
この普通でなくなった少女はもうこの世でしあわせを得ることはないのだ。そう思われたラスト。
それは、長く暗いトンネルからの出口を照らす、生みの母親に届いた、朝の光。
実際にあった話なのだろうか。この二つの「朝が来る」瞬間では、涙がとまらず溢れ出た。「朝が来ない夜はない」ならホントにどれだけいいことか。普通と言われない環境に生きる普通の女性のヒューマン・ストーリーはとても重いものに感じられた。
Doctor of Philosophy (PhD) from Waseda University. 早稲田大学より博士号を授与されました。
Belated, at the age of 65, I received PhD from the Graduate School of Asia-Pacific Studies (GSAPS) of Waseda Univ.. It was the moment of a sort of 感動 (emotion) and a big 感謝 (appreciation). The title of my dissertation is “Dissimilation & Integration” through Parasports of People with Mild Intellectual Disability”/ 軽度知的障がい者のパラスポーツを通じた「異化&統合」の可能性について” building upon my experience of working with para-table tennis players. I wish I can revisit the countries I served before and interact more with young generations.
65にして、昨日、早稲田大学の卒業式に参加。博士号を授与されました。
2016年9月にアジア太平洋研究科の博士課程に入学してから9年の歳月が過ぎました。元ユニセフスタッフで今は国連大学でも教鞭をとっておられる勝間靖教授にはほんとうにお世話になり感謝しかありません。2016年に日本に帰国して以来これまで、パラ卓球コーチ、ブータン・ペルー・ミャンマー・台湾・タイ等の卓球交流、東京オリパラ、全日本卓球マスターズ3連覇、東京選手権・全日本クラブ選手権初優勝、仲裁・裁判や母や義父の他界を含め、わたしの心と年輪に刻むべきことがありました。この博士号の取得とともに、林住期(50-75歳の時期)の第一ステージがクリアされたように思います。
ではこれからの第二ステージ(65-75)を如何に生きるか、ですね。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。(方丈記)」
初心わするべからず、輪廻と回帰を繰り返す人生ですが、これからは再びブータンやペルー、ミャンマーなどにもどっていま河の上流を流れている若者たちとの交流を深めていきたいと考えております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。




シニアと呼ばれる誕生日を迎えて
Birthday is the day to thank my mom for giving me a life, my family for making my life, and you all for shaping my life.
I feel good, fortunate and happy about how I have walked through the winding road of life with the people I love and respect. Though a few times, I hated or angered with some deeds of people around. It has the deep effects of making me broad- and open-minded. Thanks for that. I’ve learned the fact that a life is like food. If one like it, no matter how many others dislike it, it does not matter. We better just simply cook and flavor our life in the way we like as much as we can. And it is important still to have good friends like you to tell me if it has negative effects on health or not so that I can adjust. I have no regret and love my way of life with you and Japanese food, of course, because of its nature, genuineness and diversity. As I finish my PhD course and my veteran table tennis career has reached where I hoped, this year is going to be another turning point of my life to refocus on international collaboration and education of the youth.
I am going to Peru in August for 5 weeks and will revisit Bhutan as I am appointed as a vice-president of Japan- Bhutan Friendship Association. I’d like to revisit the places that shaped my life to thank you and give back whatever I have received in life to the youth.
Thanking you my friends and wishing you all for your health and happiness.







体操女子・宮田笙子への五輪辞退の強要について
スポーツ界の異様さを示すザンネンな事例が、またオリンピックという衆目を集める舞台を使って起こってしまった。法の番人である司法制度を用いる以外に、政府の行政組織やスポーツ団体などの一般社団法人は、それぞれ内規を用いた賞罰規程などの罰則を独自に設けている。行政組織でいう行政判断や行政裁量といった行為である。さて、この行政の手続きにはいくつかの原則がある。ここで問題とすべきなのは、その中でも行政手続きの比例原則と平等原則と呼ばれるものである。その内容は以下の通り。
①比例原則
ある行政目的を達成しようとするとき、より規制の程度が軽い手段で目的を達成できるのなら、その軽い手段によるべき、という原則です。 目的と手段の均衡を要求するもの。
②平等原則
憲法14条を受ける形で、行政機関が合理的な理由なく国民を不平等に扱ってはいけないという原則。
比例原則違反:まず、当件が、比例原則に違反していることは明白だろう。未成年者の喫煙、飲酒の禁止は本人の健康を守るという目的によってつくられた法律である。この目的を果たすために「もっとも規制の程度が軽い手段」を選択しなければならないことを、比例原則は定めているのである。今回の処罰が比例原則とはまったくかけ離れている基本原則に違反する行為であることは明白である。五輪辞退というまったく本人の健康とは真逆の法の目的にも反するもっとも重い手段をとった今回のケースは、体操協会という組織のクリーンで厳格なイメージを喧伝しようというまったく見当違いの目的をもってなされたものであり、即刻、取り消されるべきものである。
平等原則違反:これまでに、スポーツ界において、喫煙・飲酒を理由に国際大会への参加を剥奪された選手がいたのであろうか。聞いたことはない。今回のケースにおいても、他のオリンピック選手の喫煙や飲酒行為に関する話ばかりで、過去に今回のような処罰を行った事例はまったくないのである。今回のケースが明らかに突出した平等原則に反する行為であることは明白である。今回の判断は、スポーツ仲裁あるいは裁判によって、覆えされるべき基本原則に反する処罰と考える。
オリンピックにはドーピングなど様々な厳しい独自の規程があると理解している。選手のオリンピックへの参加資格は、国際的な基準をもって判断すべきことがらだろう。世界人権規約においても、日本国憲法においても、選手の人権は、他の国民と平等に扱われるべきものである。日本のスポーツ界だけが突出した過度な締め付けや罰則を選手に課しているとすれば、それこそ選手にとっては封建的な、常に恐怖を感じながら生きていかなければならない世界だろう。血税を使っているとか、オリンピアンだからとか、未成年に一般市民とは異なる高いモラルを求めることは高邁な理想としてはありえることかもしれないが、それをもって平等でも公正でもない過度の罰則の理由とするのは、日本スポーツ界独自の封建的な性格の現れでしかない。今日の国民の求める公正さにも、憲法の精神にも即したものではないことは明らかである。
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Third Memorial Anniversary of My Mother & Tsunuki Pagoda (母の三回忌と津貫の仏塔)
Third memorial anniversary of my mother was conducted at Housyouji (宝聖寺) temply of our home village Tsunuki (津貫). We are amazed at seeing the newly constructed gold-colored pagoda tower at the Housyouji temple. It has a unique design with two eight spoke falun (法輪) inside of the tower built on a lotus flower platform. I was especially excited to see colorful Lung ta (経文の旗) dancing in the blue sky of my home village. It was a very emotional moment to find lung ta in my home village that gave me a feeling as if I were back in Bhutan. The souls of my mother, father and ancestors may also be dancing and chatting in the wind. It is always special to be back home.
母の三回忌で南さつま市の津貫の実家に帰りました。お隣さんの宝聖寺にて、慈龍住職に読経していただき、兄や妹と母の思い出を語りました。お寺には新しく金色に輝く仏塔が建立されていました。ブータンではルン・タと呼ばれている懐かしい5色の経文の旗がたなびいていて、故郷でブータンに戻ったような不思議な感動を覚えました。実家はほぼ空き家状態となりましたが、故郷は、やはり特別な心のよりどころです。




村上春樹著「職業としての小説家」を聴いて(わたしはなぜ海外に人生の場を移したのか?)
もっとも心に残った部分は、著者がバブル期の日本を捨てて、アメリカへと出て行くくだりである。日本のバブル期に、人気作家となった村上春樹に、羽振りのよい金満な仕事話が舞い込んでくる。しかしこれらの申し出に対して、村上春樹は違和感を覚え、退廃を憂う。
村上春樹は、子供の頃から英語の原書を読みたいと願い、英文と格闘を続けた結果、英語のテストの点数は良くならなかったが、英語で小説を読解できるようになった。村上春樹は翻訳も好きである。翻訳することで、違う作家の文体にふれ、その経験を自分の文体にも活かせる。とはいえ、それで、「村上春樹の文体は翻訳文である」「日本では通用しても、海外では通用しない」という類の批評をされることもあったという。
そこで、村上春樹はニューヨークに渡る決心をしたのだ。
そして英文に翻訳した自分の小説を片手に、一からでなおす。ベストセラーになったノルウェーの森のことも知られてはいたが、その英文の小説を読んだニューヨーカーの編集者に認められる。少しずつ、一歩ずつ、アメリカの読者に知られるようになり、ヨーロッパでも知られるようになり、海外で飛躍し、名声を得る稀有な日本人小説家となる。
バブル期の日本にあって、わたしは時計製造メーカーに勤めていた。
その頃の日本は、まじめに働いて給料を稼ぐよりも、不動産や株などの資産が生む利益のほうがずっと大きいようで、社会はいびつできな臭い活気でにぎわっていた。わたしは、そんなバブルに沸く日本社会には自分の未来を重ねられず、会社を辞め、青年海外協力隊の調整員としてカリブ海のドミニカ共和国に渡った。村上春樹がアメリカに飛び出したときに、わたしも似たような決断をし、人生の舞台を海外に移していたのだ。これは偶然というよりは、必然と言うべきものではないだろうか。人生は小説よりも面白い、かも。
本のもくじ
- 小説家は寛容な人種なのか
- 小説家になった頃
- 文学賞について
- オリジナリティについて
- さて、なにを書けばいいのか?
- 時間を味方につけるー長編小説を書くこと
- どこまでも個人的でフィジカルな営み
- 学校について
- どんな人物を登場させようか?
- 誰のために書くのか?
- 海外へ出て行く。新しいフロンティア
- 物語のあるところー河合隼雄先生の思い出
あとがき
村上春樹著「辺境・近境」を聴いて、心に移ったこと
村上春樹とカメラマンのアメリカ、日本、メキシコ、モンゴルそして中国のあまり知られざる風土や人々を訪ねる紀行記。
感想ではなく、ここではわたしの心に移った村上春樹の旅の記憶の断片のいくつかを書き記しておこう。
香川の中村うどん。養鶏場からうどん屋に転向した中村親子は、足でこねたうどんと出汁を、ちょっと見ではあるかどうかもわからない小さな店の中に放置している。それを馴染みの客が勝手にとって食べていく。「うまい」
メキシコの話は、中南米に土地勘のある私には懐かしく思えた。「どうしてメキシコに来たのか」とメキシコ人がいつも口にする質問をされたら。「メキシコ料理の本を出すためだ」と答えろ、そうすれば納得する、というアドバイスをもらう。ただそのあとで困ることは、うちのおばあちゃんの料理自慢が始まることだ。
メキシコでは、バンディットとよばれる盗賊たちが頻繁にあらわれ、警察官はバスの中で襲撃に備えて銃弾をこめて待ちぶせている。そんなことは誰も教えてくれなかった。スペイン人に滅ばされたアステカの悲劇が、いまだに繰り返されているチアパス州は、誇り高き人々の住む貧困地域である。しかし、そこでは飢えることはない。「こんにちは」といえば、だれもが、食べ物を分けてくれる。しかし、ニューヨークでは、「こんにちは」と言っても、「こんにちは」と返されるだけで、だれも食べ物を分けようとはしないことに気づかされるのだ。
ノモンハン事件は事件ではなく、戦争そのものだった。そこで拾ってきた銃弾は、ホテルに戻った著者を恐怖の世界のどん底へと落とし入れる。ひとりの夜に耐えかねた著者は、外側からしか鍵のかけられないホテルのカメラマンの部屋の扉を開け、その片隅に朝までうずくまる。
アメリカ横断の旅の途中で、ラジオの報道が町の牛や豚の値段ばかりを伝える話。(私が国連で、中国の地方の町でITを導入するプロジェクトと行ったときも、テレビで流す新しいプログラムの大半が、家畜や農産物の値段や、農業技術の紹介だった。)
神戸まで歩くと、まったく風景が変わっていて、昔の面影もなかった。それは、昔建物があった場所は震災で崩壊して空き地となり、昔空き地だった場所には新しい建物が立っていたからである。
旅をするときは、その土地の匂いや雰囲気を肌身に染み込ませる。帰国して1-2ヶ月経ってから、文章を書く。そのあいだ沈むべきものは沈み、浮かぶべきものは浮かんでくる。ちょうどいい時期がある。遅くなりすぎると忘れるほうが多くなる。旅行記を書くということは、小説家にとって、いい修行になる。
村上春樹は辺境の旅行記が好きである。
よく書かれた旅行記を読むことは、実際に旅行するよりもはるかにわかりやすいこともよくあります。しかし、今では、辺境というものが失くなってしまっている。いまは旅行記にとってあまりハッピーな時代ではないのかもしれない。
それが日常とどれだけ離れているのか、それとも近接しているのかを明らかにすること。それが旅行記の醍醐味ではないか。
(さて、私たちはどのように辺境と近境への旅行を楽しみましょうか。)
村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」
これまでの小説家のイメージとはかなり違うようだが(と村上氏も回想する)村上春樹はランナーである。
小説家になってしばらくしてから、運動もせずブクブク太りだした自分を見て、長く小説家として生きていくには、体力と健康が重要であることに気づいたとのこと。千葉の田舎に住んでいたとき、近くにはジムもスポーツ施設もないことから、近くにあったどこかの大学のグランドで毎朝走ることにしたのがランナーになるきっかけらしい。毎日1時間、約10-15kmを走るというのだから、中高の陸上部の部員なみである。一日60本ほど吸っていたタバコもやめたという。毎年マラソンも走っている。これは、小説家としての成功を問わず、人生でいちばんの快挙と言ってもよさそうだ。毎日、4-5時間集中して小説を書き続けるという作業は、じつは、相当に体力を消費する行為なのである。(私が思うに、おそらく執筆という活動は、将棋や囲碁の棋士たちが盤面に向かい次の指し手を求めて苦闘しているときと同じような体力、気力、労力、脳力を使う行為なのだろう。)
それでも、瀬古監督に、走るのが嫌になったことはないですか、と質問して、何度もありますよ、との答えを聞いて納得したというわけで、走ること自体は決して楽なことではない。ただ、学校では運動が嫌いだった自分が、走ることを好きになった真因は、それがやらされているわけではなく、自分の自由意志でやっていることだからだという。
北海道のウルトラマラソンに参加して、100キロを完走したときのことの追想が書かれている。75キロまでの道のりで、すべての身体の筋肉や臓器が走るという行為を拒絶して、走ることをやめさせようと反乱や革命を起こそうと躍起になる話がある。しかし、そこを抜けると、急に反乱が鎮まる。身体が走ることを目的とするマシーンのようになって、走ることを苦にしなくなったというのである。それから200人ぐらいを追い越してゴールしたときは、達成感はあっても強い疲労感はなかった。無論、そのあと数日はまともに歩けなかったそうだが。問題の核心と思われるのは、このウルトラマラソン完走のあとで、村上春樹氏の走ることへの情熱というかやる気みたいなものが減退したと思われる記述があることだ。再びランナーとしての日常に戻るまでに時間がかかったという。体力の衰えを感じ、自分の年齢に合わせた走り方を考えることとなる。ウルトラマラソンという通常の身体コンディションを遥かに超える高負荷のイベントに参加したことで、身体が悲鳴をあげたのだろう。(私も2-3年かなり無理な練習をして、右肘の軟骨がすり減り、変形性関節症になった。そしてこの変形した右関節は決して元には戻らないと医者に言われた。)その話を聴いたときに、心理的・人間的な側面からは深い学びがあったのだと理解できたが、身体的な側面からはウルトラマラソンに参加したことはマイナスに働いたのではないかと思われた。とはいえ、村上春樹氏自身は、今はトライアスロンにも参加して、水泳や自転車レースをマスターしようというのだから、それは、不撓不屈の前向き精神と称えてもいいものではなかろうか。
以上、そんなことを思ったことを語ってみました。
「汝、星のごとく」を聴いて
著者:凪良ゆう
人気の本ということで、最近の小説を聴いてみた。
恋人同士である井上暁海(あきみ)と青埜櫂(かい)が、交互に主人公となって話すので、最初は違う小説を聴いたのかととまどった。同じ情景を見ていても、同じ行為を行っていても、その見方や感じ方、思っていることはまるで違うことを改めて聴く者に深く感じさせる小説である。
シングルマザーとその子供、LGBTというマイノリティ、田舎の島という閉鎖社会、現代社会の片隅においやられた人々の精神世界と生きるための葛藤を映し出しながら、あまりにも深く強く純粋でありつづけた男女のラブストーリー。
二人をひきさいている最も直接的で痛ましい要因は、それぞれの母親(他人依存症のシングルマザーと夫を不倫相手に取られたうつ病患者)で、あきみを見守るのは風変わりな教師と父親の不倫相手の女性、櫂を助けるのは編集担当の仕事仲間たち。男の漫画家としての成功ゆえに女は去り、女の刺繍作家としての成功が男と再会する力をもたらす。二人の恋愛はほんの短い間だけ成就するわけだが、めでたしめでたしの最後ではない。アンバランスでイレギュラーな、それでいて安堵感のある家庭生活がつづいていく。残ったのはひとつのドラマのあとのしずけさ。
そして、たぶん、閉められていたもうひとつのドラマの扉。
お義父さんの旅立ち
12月20日、タイのバンコクにいるときにお義父さんの訃報が届いた。21日の朝に帰国し、火葬場の関係で葬儀は25日となる。
思えばお義父さんにはたくさんお世話になった。初めて知ったときは、ペルーで電電公社関係の技師・専門家をしておられた。私は青年海外協力隊でペルーに赴任し、そのときに妻と出会ったのだった。その帰国のときの私の荷物を、自分の家族の引っ越し荷物として同梱して日本に送ってもらったのが最初に面倒をおかけしたときだった。海外生活の長かった私たち家族が、日本に滞在するときは、いつも妻の実家である湘南台の家にお世話になっていた。私が単身赴任となってからは、妻と子どもたちは、実家でお義父さんと生活し、お義父さんは毎日入院中のお義母さんのお見舞いにゆく生活を続けておられた。どちらかというと言葉少なく、表情に出すほうではないが、とても家族思いのお義父さんだった。
町内の老人会の会長役でもあり、時間に正確で、規則正しい生活をしているお義父さんには、よく飲んで帰りがおそくなったり、早寝早起きとは無縁の私に対して、言いたいことはたくさんあったろう。それでも私に対して、怒ることも干渉することもなく、寛容で大人のお義父さんだった。
晩年は、認知症の症状もあったが、自分の家で過ごしたいという思いが強く。救急車に運ばれて入院するまで、4階にある自分の部屋まで歩いて上り下りしながらガンバっていた。
入院する以前から、あまり起き上がることもできず、食事も思うようにできなくなっていて、妻も心配していた。まだまだ長生きするだろうと思っていたのだが、92歳、年の瀬に天へと上って逝かれた。先に天国に旅立たれたお義母さんと積もる話もあることだろう。
家族葬ではあるが、子供や孫そしてひ孫、近い親族が参列し、冬とはいえ、いっぱいの綺麗な花に囲まれた静謐で温かみのある葬儀だった。娘である妻と孫娘である長女がいっしょに選んだディズニーランドって撮った遺影が、佳い人生だったと微笑みかけているようだった。
お義父さん、92年間ごくろうさまです。ほんとうにありがとうございました。
南無阿弥陀仏。合掌!!