北京オリンピック/高梨沙羅の悲劇:あまりにも愚かな人間の審判・判定との闘い

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以前のブログ「審判は神であるべきか?」で、人間は技術革新(AI)にスポーツの審判の座を明け渡すべきだと説いた。あろうことか、北京オリンピックというスポーツ界の最高の舞台で、人間の審判や判定による劣悪な悲劇を、私たちは見せつけられている。目の覚めるような大ジャンプをみせた高梨沙羅が、着ていたスーツが緩かったという理由で失格となったことを伝えられた大半の人々は、何が起こったのかもわからず、ただただ呆然とし、唖然とし、あるいは憮然としていたにちがいない。泣き崩れる沙羅の姿を見て、その判定に憤りを覚えた人も多くいただろう。競技を見ている私たちにはまったくわけのわからない所で、わけのわからない理由で、しかも参加選手全員ではなく、恣意的に選ばれた選手だけに対して、突然そうした検査が行われ、対象とされた選手が失格という見せしめの刑罰に処される。スポーツにおける審判は絶対神であり、審判がそういえばそうなるのである。

オリンピックという選手にとっても家族や応援するファンにとっても、もっとも晴れやかな4年に一度の舞台が、こうした違反摘発の見せしめの場として使われることを誰一人望んではいない。そのようなオリンピックに何の意味があるというのだ。こうした一般常識ではわからない規則の徹底やその取締りに関することは、オリンピックの直前の世界選手権やさまざまな国際大会や会議において、徹底して周知させ、実施させ、浸透させて、かつ情報公開をして、オリンピックという晴れの舞台で起こらぬように、努力し、汗をかくのが、組織委員会や審判団、すべての関係者の務めというものだろう。これでは、スポーツがアンフェアで、汚ないものであることを喧伝しようという、アンチ・スポーツ組織の陰謀としか思えないではないか。全参加選手団の納得と承諾を得ない、しかも公正・平等ではない、審査や判定は、決して行われるべきではない。審判が人間である以上、審判の行動を監視し、コントロールするシステムがなくてはならない。そもそも人間には、他の人間(生き物)に対する審判をくだす能力はなく、そのような一方的な権限を持たせるべきではないのだ。

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