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全日本卓球選手権大会マスターズの部(ロー60)三連覇を達成!! / Achieved Three Consecutive Victories at the All Japan Table Tennis Championship Masters (low sixties)
【卓球】全日本マスターズ、男子ローシックスティ〜ハイセブンティの結果。田中敏裕が3連覇、坂本憲一は19回目V – 卓球王国 (world-tt.com)
今年の全日本マスターズは「三連覇します!」と公言して鍛錬に励んできました。初優勝のときから「優勝します」と言い続けてやってきたので、「有言実行だね」と言われています。昔は「沈黙は金なり」という格言が幅を利かせていました。国連とかに勤めていると「有言不実行」なことのほうがこの世では当たり前だということに気づかされます。いまでは「フェイク(虚言)」ですら効果的に世間を動かすことができるという現実を目の当たりにしています。真摯に心に強く思い、それを全力で目指すということを明確にして、歩を進めることの大切さを感じます。なぜなら、その思いに共鳴してくれる周囲の人が生まれ、実際に手を伸ばしてくれるということが起こるのです。自分一人の言葉・目標ではなくなり、沢山の人々と三連覇への思いがつながる。これは私の小さな人生や生活空間にとって革命的な変化をもたらす原動力になります。だから、言霊、言葉が伝えもたらすパワーをしっかりとマネージすることは、人の間に生きる私たちのもっとも大切な能力の一つなのだと思います。
さて、三連覇しました。今回は浅草のホテルにチームメートと泊まり、毎朝浅草寺にお詣りしました。学生時代からの同僚の高田淳くんが、これまでと同様に大会中の調整とベンチコーチについてくれました。最初の試合の二回戦の山田昭仁選手との試合が序盤の山場で、1ゲーム目を出足から連続スマッシュで奪われ、初戦敗退の色が濃厚に感じられました。2ゲーム目からは1本1本に集中して、サーブで自分のポイントを確保し、レシーブではとにかく我慢のラリーに持ち込み粘り切ること。ジュースで2・3ゲームが取れたことが大きく、4ゲーム目は攻撃が息切れしてきた山田選手を押し切ることができました。会場中が注目する一戦でした。多球練習を積み重ねていたことがブロックの強化に繋がったと思います。3回戦の小林哲也選手は右ペンの裏面ドライブを使う選手ですが、比較的ボールが私と合いやすくラリーで優位に立てて勝つことができました。ランク決定はいつも練習している橘川さんが上がってくるかと思っていましたが、北海道の右ペンドラの佐々木選手との対戦。七色の変化球をあげてくる佐々木さんにふわ~と対応して、決め球をしっかり打って勝つことができました。
準々決勝は大阪ではチームメートの川口健治選手。裏アンチのレシーブとコースが分かりづらいドライブで撹乱されて2・3ゲームをジュースで落とすという予想外に苦しい展開となり、とにかく先に打つことを心がけて4・5ゲームを挽回勝ち。準決勝の田邊直己選手は初めて対戦するカットマン。とにかくフォアドライブが上手い。しっかりドライブしてスマッシュで決めるパターンとドライブを打たせてラリーで勝つパターンを作れて勝利。決勝戦は巷の予想通り、千葉の佐藤計選手との対戦となる。1ゲーム目からバックハンドがよく入り、こちらの攻撃もカウンタードライブする佐藤選手に圧倒される。高田くんに「打点を高く。身を削らないと、卓球の神様はお前に振り向いてはくれないぞ」と叱咤され、必死の思いで打つうちに2・3ゲームはこちらの連続攻撃に、すでに疲労が見えた佐藤くんにミスが出て、有利な展開となった。最終ゲームでもレシーブから打ち続け、押し切ることができた。
三連覇を目指して多くの方々にご面倒をかけて練習してきました。私の家族、九十九クラブの園田監督、河島先輩はじめチームのみなさん、岸田卓球道場、相模原の練習仲間たち(松島くん、橘川さん)、もうすぐ栄光ある伝統の幕を閉じる東京富士大学の西村監督と卓球部の皆さんには幾度となく鍛えていただきました。ホントに感謝してもしきれません。同期の西田くん、立花くん、川口くんにも練習試合などお世話になりました。
みなさん、ホントに、ありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
A great achievement!! It was beyond my dream that I got the championship of All Japan TT Masters (60~64 ys category) for the three consecutive years. This year, I was struggling with my body conditions (had kidney stones, back aching and knee aching). A new realization of life is that I need to take good care of my body and avoid overworks. So, I start to focus on quality and not much on quantity in my practice. It appears paid-off. This year I made a statement to my TT friends that “I will get the three consecutive victories at the All Japan masters (veteran) championship following the gold in 2021 and 2022”. The news of my Peruvian TT colleagues, Eliana, Magali and Milagrito, becoming champions at the Pan-American Veteran Championship was also a big encouragement (Congratulations!!). Let’s enjoy sport for friendship, happiness and life.



パラリンピアンの加藤くんと私と卓球を始めた飯島くん(親子)との嬉しい再会と対戦 (Reunion with a Paralympian, Kato-kun, and my table tennis student, Iijima-kun and his father at Nissan Cup team tournament)
昨日、座間市の日産カップ卓球大会(2部)でチーム優勝しました。
予選の第一試合が、驚いたことに、私がパラ世界選手権などでコーチしていた加藤くんと私と卓球を始めた飯島くん(親子)のいるチームとの対戦。加藤くんに憧れていた飯島くんが親子で加藤くんと一緒のチームで出場しているという微笑ましくも感極まる出来事でした。その初戦がコーチだった私のチームとの対戦という冗談でもなかなかない奇遇で、結果は生徒チームの勝利!! 加藤くん、飯島くんとお父さん、角井くん(私に3-2で逆転勝ち)、感動をありがとう。
そのあと予選二位通過だった私のチームは、なんと私がエース対決で全勝し、ダブルスも全勝で、2部で優勝できました。とにかく若者ばかりで、60代の私たちとはボールのスピードがちがって、元気なラリーを楽しむことができました。もうすぐマスターズ、ガンバります!!
Yesterday, we participated in Nissan Cup team tournament in Zama-city. To my pleasant surprise, I encountered with a team of a Paralympian, Kato-kun, with whom I participated numerous international TT championship as the coach and Iijima-kun who started learning ping pong at my Enjoy TT class three years ago. Since then, Iijima-kun’s has been a big fan of Kato-kun as his hero. This time, Iijima-kun with his father joined his hero, Kato-kun’s team and played together. It was in fact beyond my imagination. The first game was (un)fortunately battled between their team and my team. My team lost to Kato-kun and Iijima-kun’s team. Waooo… It was so great to see how much they have grown not only as player but also as human. Our team still classified to the final tournament and surprisingly we won the championship!! Our team was by far older veteran team with double or triple age difference, and it is always fan to play ping pong together with young generation.




ペルーJICA海外協力隊派遣40周年OVインタビュー その3/ Entrevista conmemorando el 40 aniversario del JOCV: Sr. Toshihiro TANAKA (III)
3.当時の隊員の経験が今現在の自分に与えている影響はなんですか(帰国後の進路に与えた影響、仕事や生活をする上での変化、物事への考え方や価値観など)
大学時代は新聞記者になろうと思っていた。面接で目標の新聞社に落ちて、海外で生活したいと思い協力隊を考えた時は、実は難民キャンプで働こうと思っていた。大学一年の頃はカンボジア難民を救う会で活動した時期もあった。実業団入りを断って卓球と違う道を歩もうとしていた私が、協力隊に参加する道は、結局卓球隊員になることだった。ペルーでナショナルチームを引率するようになり、メディアの人々とも接する機会が増えた。いつしか取材する側よりも取材される側になりたいと思うようになっていた。日本に帰国した途端にただの人になった。国際協力を続けたかったが、スポーツ分野では可能性が閉ざされていた。私は企業を退社し、協力隊調整員としてドミニカ共和国に赴任した。その後、アメリカ留学して修士課程を修了し、幸運にも国連開発計画(UNDP)に合格することができた。ペルーの仲間に卓球していればいつか再会できると約束した私は、休みを利用して卓球活動は続けていた。パキスタンでは平和復興のためのスポーツの祭典事業を実施した。国連を早期退職した私に、ペルーの元選手たちからナショナルチーム強化のための改革を依頼されて32年ぶりにコーチとして迎えられた。日本の知的障がいパラ卓球のコーチをしていたので3か月間だけだったが、立派になった選手たちとの再会は本当に感動的だった。南米チャンピオンだったモニカ・リヤウさんは、「Impactando Vida」という卓球普及プログラムを全国100校以上で展開する女性企業家として注目されている。「目標を定めて努力することが当たり前になった」ことが私から学んだ成功の秘訣だとある貧しかった選手から伝えられた。私はこれから障がい者スポーツと生涯卓球と幸福をテーマに白球を追って途上国に行きたいと考えている。




Foto 3. Agosto de 2011. “Spirit of SWAT“ en Pakistan
Please see the link here https://happy-development.com/spirit-of-swat-2/
3. ¿De qué manera influyó o influye actualmente en usted la experiencia como voluntario JICA en el Perú?
Cuando estaba en la universidad, pensaba convertirme en periodista. Pero cuando no pasé la entrevista de trabajo en el diario Asahi, quise trabajar en los países en vías de desarrollo y por eso pensé postular a los Voluntarios, con la idea de trabajar en un campamento de refugiados. Durante mi primer año en la universidad participé en grupos que ayudaban a refugiados de Camboya. Al final me convertí en Voluntario en tenis de mesa. En el Perú comencé a conducir el equipo nacional y aumentaron las ocasiones de tomar contacto con las personas de los medios de comunicación. En cierto momento, empecé a sentir que antes que hacer las entrevistas, me gustaría más estar del lado de los que son entrevistados. Regresando a Japón, instantáneamente volví a ser una persona más del común. Quería seguir en la Cooperación Internacional, pero las posibilidades en el campo del deporte eran nulas. Me retiré de la empresa Citizen y fui destacado a República Dominicana como Coordinador de Voluntarios. Posteriormente, estudié en Estados Unidos y obtuve mi post grado y por suerte aprobé el ingreso al Programa de las Naciones Unidas para el Desarrollo (PNUD). Yo había prometido a mis compañeros de Perú que, si seguíamos practicando el tenis de mesa, algún día nos reencontraríamos, por eso en mis días de descanso continué con las actividades de este deporte. Por ejemplo, en Paquistán, hicimos un proyecto deportivo para la pacificación. En Bután, formé el equipo nacional de tenis de mesa y dirigí el equipo butanés en los juegos del Sur de Asia. Luego de retirarme de las Naciones Unidas, recibí el llamado de los ex jugadores de Perú que me pedían realizar una reforma para fortalecer la selección nacional, y es así como 32 años después, regresé como entrenador. Como en Japón me encontraba dirigiendo el equipo nacional de paratenis de mesa con discapacidad intelectual, sólo pude ir por tres meses, pero el reencuentro con los ex deportistas ahora ya adultos, fue realmente emotivo. La ex campeona sudamericana Mónica Liyau se había convertido en una empresaria que concita la atención por el programa de difusión del tenis de mesa llamado “Impactando Vidas”, desarrollado en más de cien colegios del país.
Hace un tiempo, un jugador de origen humilde me dijo “‘Fijar un objetivo y esforzarme para alcanzarlo, se me ha vuelto natural’, ése es el secreto del éxito que aprendí de usted”. Pienso continuar dedicándome al deporte para personas con discapacidad, al tenis de mesa de por vida y a la felicidad, como temas y deseo seguir yendo a los países en desarrollo, siempre en pos de la blanca pelotita.
ペルーJICA海外協力隊派遣40周年OVインタビュー その2/ Entrevista conmemorando el 40 aniversario del JOCV: Sr. Toshihiro TANAKA (II)
2.活動について教えてください(どこの配属先で誰と何を目標に活動してきたか。思い出に残っている活動、成功例、失敗例など)
ペルー卓球連盟に配属された私は、当時日系人として初めて連盟のトップとなった元名選手のグラディス森山会長の卓球普及の公約を実現するために、国立の小中学校で卓球を体育の選択授業として導入する活動を行っていた。ナショナルチームには世界チャンピオンを育てた経歴を持つ3人の中国人コーチがいて、私は地方や学校での普及活動だけでいいということだった。人生で初めて卓球してさえいればいいという環境にあって、私は自主的に平日の夕方と週末はナショナルチームのメンバーの練習相手をし、平日の夕方の練習後はペルー人コーチと夜間練習をするのが日課となった。明らかにペルーで最も練習量が多く、ペルー選手に負けることのない私は、兄貴的なコーチとしてペルー選手や卓球関係者の信頼を得るようになった。初めての南米ジュニア選手権で、元日本代表選手の古川監督の率いるブラジルに団体戦で完敗した。一度は折れた心を奮い立たせ、個人戦に入って、女子ジュニアでモニカがブラジル選手を破って優勝し、ダブルスでも準優勝、インファンティール部門でエリアナが個人と混合ダブルスで優勝して二冠を果たせたのがコーチとして一番思い出に残っている。全米オープンではクラブ選手権で私もペルーチームの一員としてプレーしてチーム優勝し、私が憧れていた当時の世界チャンピオンの江加良選手と戦って1セットを奮取することができたのが私の卓球人生の一番の思い出となっている。

Foto 2. Octubre de 1985, Campeonato Juvenil Sudamericano
La selección peruana parte a Argentina, para el Campeonato Sudamericano Juvenil de Tenis de Mesa. (En la fila posterior, de derecha a izquierda, el Sr. Moreno, presidente de la Federación y yo). Los resultados fueron muy satisfactorios: el equipo Sub-18 obtuvo dos medallas de oro y una de plata, el Sub-15 una de oro y una de bronce y el Sub-12 dos de plata y una de bronce. (1985年10月:南米ジュニア卓球大会ペルー選手団がアルゼンチンに向けて出発するときの写真。結果は18歳以下で金2個、銀1個、15歳以下で金1個、銅1個、12歳以下で銀1個、銅1個で、1983年のブラジル大会につづき、好成績だった。)
2. Cuéntenos sobre las actividades realizadas
Al ser destacado a la Federación Peruana de Tenis de Mesa, realicé actividades para introducir el tenis de mesa como clase optativa de Educación Física en los colegios nacionales de primaria y secundaria, buscando difundir este deporte y ayudar a cumplir la promesa pública que hizo la primera nikkei que fue presidenta de la Federación, la ex campeona sudamericana Gladys Moriyama. El equipo nacional contaba con tres entrenadores chinos que llevaban en su currículo el haber formado a campeones mundiales, por lo tanto, me encargaron la difusión del deporte limitándome a las escuelas y al interior del país. Por primera vez en mi vida, estaba en un entorno donde podía dedicarme al tenis de mesa y nada más. Por iniciativa propia, empecé a acompañar los entrenamientos del equipo nacional los días de semana al atardecer y los fines de semana. Después del entrenamiento vespertino diario, practicaba también en la noche con el entrenador peruano Sr. Vega y eso se convirtió en mi rutina diaria. Claramente era la persona que entrenaba más horas en el Perú, más que los propios jugadores, y así fue como empecé a gozar de la confianza de todos los involucrados y de los jugadores, para quienes era como un entrenador tipo hermano mayor. En mi primer Campeonato Sudamericano Juvenil, fuimos derrotados por equipos ante la selección de Brasil, dirigido por el Sr. Furukawa, ex entrenador de la selección japonesa. Después de recuperarnos del golpe anímico, comenzó la fase de individuales, donde Mónica Liyau venció a la representante brasileña en la categoría juvenil mujeres, logrando el campeonato y también el subcampeonato en dobles con Magali Montes. Mientras que, en infantiles, Eliana Gonzáles del Riego venció en individuales y dobles mixtos, y Mario González consiguió el oro en individuales infantiles, venciendo a los jugadores de Chile y Brasil, logros que se volvieron imborrables para mí como entrenador. En la categoría de equipos de los Clubes del US Open, participé como miembro del equipo peruano con Walter Nathan, y ganamos contra equipos de Suecia, Estados Unidos y Canadá, logrando el primer lugar. En especial, uno de los mejores recuerdos de mi vida en el tenis de mesa, fue que jugué contra el campeón mundial de ese entonces, Jian Jiangliang, y logré ganarle un set.
ペルーJICA海外協力隊派遣40周年OVインタビュー その1/ Entrevista conmemorando el 40 aniversario del JOCV: Sr. Toshihiro TANAKA (I)
1980年代前半のペルー協力隊はスポーツ関係が多かった。特にペルー初代隊員の空手の田中さんは自分の空手クラブを運営し、ペルーに生活基盤を築く、ひときわ異彩を放つ存在だった。そして陸上の初代隊員である綿谷さんが、国際協力基金で専門家として再赴任し、投てき競技を専門とする椿原さんと一緒に日本のスポーツ分野における国際協力をリードする存在として尊敬を集めていた。そしてこのスポーツを通じた国際協力の英雄が、加藤明である。その死にあたり「ペルーは泣いている」と言わしめたアキラ・カトーは、ペルー女子バレーを、日本を越える世界のトップレベルに押し上げた立役者だった。ペルーのジュニアチームのコーチとして古川さんと大坂さんという二人のバレー隊員が活動していた。地方では赤塚さんが水泳コーチとして活躍し、野球コーチとして赴任した大森さんは、ソフトボールのコーチだった下西さんとよく一緒に練習していた。大森さんは専門家として再赴任して、ソフトボールのペルー代表選手だったパティさん結婚し、今ではリマ市で幼稚園を経営している。そんな中で、私は卓球人としての私の目標を、南米大会そして全米オープンに照準をあて、コーチ兼選手として練習に励む毎日を過ごすようになった。
1. ¿Cuál fue su impresión del Perú?
Durante la primera mitad de la década de 1980, de los voluntarios enviados a Perú, muchos eran del campo del deporte. En particular, el primer voluntario en el Perú, el Sr. Tanaka, de karate, fue una presencia muy especial, que llegó a sentar las bases de su vida en el Perú, administrando su propio club de karate. Conjuntamente con el primer voluntario de atletismo, Sr. Wataya, quien volvió al Perú como experto de la Fundación Japón, y el Sr. Tsubakihara, especializado en la rama de lanzamiento, fueron altamente respetados como presencias líderes en la Cooperación Internacional en el campo del deporte. Y el héroe de la Cooperación Internacional en el deporte, es el Sr. Akira Kato. Al punto que, a su muerte, se dijo que “El Perú lo llora”. Akira Kato fue el impulsor del vóleibol femenino peruano, llevándolo a niveles cumbre en el mundo, superando a Japón. En el equipo juvenil de entonces, los voluntarios Sr. Kogawa y Sr. Osaka se desempeñaban como entrenadores. En otras ciudades, el Sr. Akatsuka era entrenador de natación y el Sr. Omori, quien estaba destacado como entrenador de béisbol, solía practicar frecuentemente con el Sr. Shimonishi, entrenador de softbol. El Sr. Omori volvió al Perú enviado como experto, y contrajo matrimonio con la Srta. Patty, seleccionada nacional de softbol. Actualmente administran un jardín de infantes en Lima. En ese contexto, como deportista de tenis de mesa, fijé mis objetivos en el Campeonato Sudamericano y en el Abierto de Estados Unidos (US Open), esforzándome a diario en las prácticas, como entrenador y deportista a la vez.

Foto 1. Mayo de 1985, en Puno
Vista de la exhibición de tenis de mesa realizada con el medallista de bronce de los Juegos Panamericanos, Walter Nathan, invitando a los estudiantes de escuelas primaria y secundaria de Puno. A 3,800 metros de altura, la pelota es más rápida que a nivel del mar y vuela más lejos, controlarla es difícil. (標高3800mのチチカカ湖畔のインカ帝国の始まりの地プーノ市にて、パンアメリカン大会銅メダルのワルター・ナタン選手と卓球のエキシビションマッチを小中学生の前で行なう。空気圧が低いためボールが遠くまで飛んでコントロールが大変だった)
ブータン卓球連盟に卓球用具を贈りました!!
Today, to our TT friends of the Kingdom of Bhutan , a boxful of table tennis materials donated by ping pong friends of Japan through World Table Tennis (卓球王国)was handed over to a shipping company. Those materials will be utilized under the oversight of the Bhutan Table Tennis Federation (BTTF). I have been working with BTTF since 2004. It is always a big pleasure to be part of an endeavor to increase happiness (GNH) of the youth, boys and girls, and those who, otherwise, are not having access to sports. Thanks & Be Happy!!
卓球王国を通じてたくさんの卓球用具のご支援を、海を越えた協力活動にご賛同くださった皆様からいただきました。今日は、いただきましたラバー、ラケット、ユニフォーム、ボール, シューズなど計25kgの卓球用具をダンボールに詰めて、国際宅急便でブータン王国の卓球連盟に贈りました。ブータンには卓球用具は存在せず、買える子供もいないので、貴重品です。ブータンの子どもたちが卓球競技に親しみ、大会等に参加するための大事な一助となります。またブータンを訪問して短期指導したいと思います。
本当にご協力ありがとうございます。
次はミャンマーへの支援を考えていますが、おそらく自分で持っていく方がいいかと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。


ペルーの子どもたちに卓球用具を贈りました
Today, I shipped a boxful of table tennis materials donated by many ping pong friends of Japan through World Table Tennis (卓球王国)to ping pong friends, boys and girls of Peru. We have a very producive and trusted collboration with Liyau Foundation (Mrs Monica Liyau) with the objective to help advance sustainable development goals (SDGs) through prividing children in various corners of Peru with opportunities to practice table tennis. It is a very small act but we believe it is a meaningful step toward the right direction.
Thanks, Arigatou, for the donation and the fruitful collaboration with Liyau Foundation, “Impactando Vidas”.
卓球王国を通じてたくさんの卓球用具のご支援を、海を越えた協力活動にご賛同くださった皆様からいただきました。今日は、いただきましたラバー、ラケット、ユニフォーム、ボールなど計25kgの卓球用具をダンボールに詰めて、国際宅急便でペルー共和国に贈りました。寄付していただいた卓球用具は、ペルー国内の二百校あまりの小中学校で卓球の普及活動をしているNPOの”Impacting Lives”というプロジェクトで活用されます。卓球用具など見たこともなく、買うこともできない子どもたち、家庭、学校にとっては、貴重品であり、選手として大会に参加できる喜びや希望を持てるキッカケになっています。
リンク:https://www.facebook.com/ProgramaImpactandoVidas/
ご協力ありがとうございます。
今後tもよろしくお願いいたします。
次は、ブータンに贈る準備していますので、また報告します。




2023 台湾 国際自由杯 で個人準優勝、団体3位!!
前回のタイの国際大会参加に続いて、ミャンマー以来の友人である葉旗山(得和集団)の招待を受けて、6月3-4日、台湾の台中市で開催された国際自由杯大会に参加しました。
初日の団体戦はシングルスで2敗を喫するも、全員一丸となって戦い、3位という好結果でした。中国製ラバーは、回転がかかり、台に当たってから下にのびて行く感じで、飛んでこない。台上のボールも微妙に止まって、ネットに当ててしまうことが多い。イボ高ラバーの選手で、打つのがうまい相手には、タイミングもリズムも合わせるのが難しく、精神的にも身体的にも疲労がはげしい。
トイレが旧式であるのも、痛めている膝を悪化させる要因となった。国際試合は色んな要素があって、チャレンジングである。
二日目のシングルスは、気持ちを入れ替えて臨む。しかし、予選第1試合からゲームを落として、内心は気が気ではない。シンガポールの友人とも試合。今大会には、シンガポール、香港、マレーシア、ミャンマー、中国そして日本からの参加者がいた。タイで友だちになった人たちも多くが参加しており、アジアのベテラン卓球人たちとのネットワークの輪が生まれてきたのを感じる。
60代の決勝トーナメントは、今大会最多人数で、予選で2回戦、決勝まで8回戦を戦う必要があり、試合と試合の間に休むまもなく、すぐに次の試合が始まる。ベスト16で昨日2-3で敗れた台湾の江富志選手と再対戦する。接戦ながらも3-0で勝てた。準々決勝は、タイの大会でも準決勝で対戦した香港の張文光選手。1ゲーム目を接戦でモノにできたのが大きい。3ゲーム目は10-5のリードを逆転されて11-10でマッチポイントを逆に握られる。そこから、粘り勝つ。準決勝の陳聡明選手は、誰もが認める台湾の名選手とのこと。とにかくボールさばきが軽やかで、バックブロックとフォアの攻撃、すべての技術において習熟したレベルの高さを感じる。この試合はビデオ録画があるので、ぜひ、見て楽しんでほしい。ゲームオール1-6からの逆転勝利。私にとっても、人生の中で、記憶に残るいい試合でした。






「チームひな」が世界最大最強の「卓球中国」に劇的な勝利。卓球界に新しいフロンティアが拓けるのか?
昨夜の世界卓球選手権大会(於:ダーバン、南アフリカ)の女子シングルス準々決勝で、早田ひな選手が、世界3位の王芸迪選手(中国)を4―3で破った。カウントは、4-11/11-3/11-9/6-11/11-9/8-11/21-19。
特に、ファイナルセット、8-10から9回のマッチポイントをはねかえしての21-19の勝利は、卓球の歴史と見る者の心にのこるファンタスティックでエキサイティングなドラマだった。
早田ひな選手はインタビューに答えてこう述べている。
「中国(選手)の壁を超えるために、チームひなの皆さんに支えてもらってきたので、この大舞台で勝つことができて嬉しいです。」
個人競技であるテニス、陸上等のオリ・パラスポーツで、世界を目指す選手をサポートするボランティアも含めたチームが形成されることがある。プロスポーツで経済的にゆとりのある選手なら自分のチームを作ることもできるが、卓球のようにプロとして自立することすら大変な競技では、世界チャンピオンを目指せるようなチームを個人がつくることは、かなりの困難であり不可能に近いことだろう。ましてや、さまざまな国際大会への参加申請すら、テニスのように世界ランキング選手の自由意志で決められるわけではなく、日本(各国)の卓球協会にコントロールされているわけだから、大会へ向けた調整すら自分ではスケジュールを決められない。
卓球中国は言わずとしれた中央集権型の巨大卓球企業であり、周恩来首相のお声掛りで中国の建国期から始められたもっとも長い国家プロジェクトである。当然のことながら、卓球中国は世界最大の市場である中国国内のモノポリーを有し、世界においても裾野からトップまでの最大の卓球消費者を抱える寡占企業である。世界チャンピオンレベルの選手層において、ほぼ独占状態を数十年にわたり続けている信じ難いパフォーマンスを誇っている。現代にいたっても企業努力を怠らず、その地位も強まるばかりである。
スポーツ界においては、個人の努力と栄光を称える風潮が主流であり、国家は表面にでないことが基本となっている。「政治とスポーツは別もの」であるべきもの。ただ国家がスポーツを支援することは称賛されることであり、スポーツが国民を鼓舞することや経済効果をあげることも大切な役割であると考えられる。卓球中国はその一つの典型なのだろう。
さて「チームひな」という小さな個人グループ(企業ですらない)を母体とする早田ひな選手が、卓球中国のチャンピオン軍団のトップメンバーを世界卓球選手権大会という世界最高の花形舞台で撃破するという歴史的な快挙を成し遂げた。この意義は決して小さなものではないだろう。世界の先端技術において、個人のグループがGAFAに勝利したようなものなのか。スポーツではレベルプレイイングフィールド(level playinng field)と言って「同じ条件、同じ土俵」で戦うことが保障されている。経済の市場原理は実はそうではない。かといって、スポーツの勝負は、そもそも土俵にあがる前についていることも、実力差のある選手の試合を見れば明らかなことである。アマチュア相撲のチャンピオンを大相撲の力士と対戦させても結果は見えている。
今後、チームひな、のような個人グループが世界最大最強の卓球中国企業に勝つような現象が起こるとしたら、これは卓球界における歴史的、コペルニクス的転換と言っていいだろう。個人のチームが国家企業に優っている点があるとすれば、個人の特徴、性格、コンディションに合わせた調整ができることだろう。また、選手一人にかける費用という点では、一企業でも支えられる程度のものだろう。大谷翔平選手クラスでも、彼個人にかけられた費用はリーズナブルなレベルだと思われる。
それでも、国際大会という主戦場でプレーするには、「卓球日本」という中小企業のサポートが不可欠である。今のところ、そのサポートは「卓球中国」と比較してあまりにも貧相である印象は否めない。おそらく、選手自身が一番それを痛感しているのではないだろうか。
「チームひな」や「張本ファミリー」が、「卓球中国」という世界を牛耳る国家企業に対抗して、新しい卓球界の歴史とフロンティアを拓く契機とならんことを、祈り、むちゃくちゃ応援したいと思う。
新スポ連/全国卓球選手権大会 で二冠達成(初の団体優勝と二回目の個人優勝)
新スポ連の第58回全国卓球選手権大会 (岡山)で初の団体優勝(60代)を成し遂げることができました。個人戦でも優勝。二冠というのは初めての体験、やはりチームで勝つというのは喜びも元気もお酒の量も倍増しますね。チームリーダーの河島さん、ダブルスパートナーの万沢さん、今回参戦できなかった高田くん、そして応援してくださった九十九チームのみなさん、あたたかく迎えてくれた岡山のみなさん、ありがとうございました。優勝の賞品、きびだんご30個を2箱いただきました。
For the first time, we won the Gold Medal (60’s) in the team event at the JNSF 58th National Table Tennis Championship & I was fortunate to get another Gold Medal (60L) in Men’s Singles.
It was held in Okayama Prefecture, central west part of Japan, one of my best friend, Mr Tachibana, who won the bronz medal both in the team and Men’s singles events, brought me to Okayama castle and the very famous Japanese garden, Kourakuen (後楽園)for sightseeing. As we have learnt to live with Covid, there were many tourists from various parts of the world. You all are most welcome to visit Japan. We are now in the spring, let’s enjoy ping pong, food and drink together.






