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スポーツにおける審判は、裁判所の裁判官あるいはこの世の神のような絶対的権限を持ち、そのジャッジ(判断)は不可侵であり、最終的なものとされる。あとになって、判断ミスとわかっても、試合の結果が変わることはない。サッカーの反則、柔道の一本、フィギュアスケートの採点、テニスの線審等々、審判の判断は勝敗を左右し、不満や争いの原因となることが多い。近年になって映像による判定手段が加えられたことで、誤審やジャッジを巡る争いが減少したようだ。テニスは映像判断を求める制限付き権利を選手に与えることで、映像判断の権利の行使自体をゲームの一部として楽しむ空気すら生まれている。実際に、陸上や水泳のタイムやフェンシングの得点など、人間の目ではなく、科学技術に判定を任せている競技も少なくない。未来のスポーツにおいては、審判という神格化された人間の一存ではなく、適切な技術を駆使し、情報を公開して、ジャッジの透明化と共有化を行うことが、スポーツの倫理的基盤を強化し、フェアプレーを鼓舞し、公正さを維持することにつながるのではなかろうか。スポーツが「より人間的」であることを求めることと、その結果としての記録測定や勝敗のジャッジにおいて技術革新による高精度な正確さや人間的な恣意性・誤審の排除を求めることとは倫理的に矛盾せず、スポーツ界にフェアネス(公正さ)やクリーンネス(高潔さ)をもたらすものと考えるのだが、どうだろう。
2022-02-12 18:06
[…] 以前のブログ「審判は神であるべきか?」で、人間は技術革新(AI)にスポーツの審判の座を明け渡すべきだと説いた。あろうことか、北京オリンピックというスポーツ界の最高の舞台で、人間の審判や判定による極悪な悲劇を、私たちは見せつけられている。高梨沙羅が泣き崩れる沙羅の姿を見て、その判定に憤りを覚えた人も多くいただろう。競技を見ている私たちにはまったくわけのわからない所で、わけのわからない理由で、しかも参加選手全員ではなく、恣意的に選ばれた選手だけに対して、突然そうした検査が行われ、対象とされた選手が失格という見せしめの刑罰に処される。スポーツにおける審判は絶対神であり、審判がそういえばそうなるのである。 […]
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2022-02-12 18:27
[…] 以前のブログ「審判は神であるべきか?」で、人間は技術革新(AI)にスポーツの審判の座を明け渡すべきだと説いた。あろうことか、北京オリンピックというスポーツ界の最高の舞台で、人間の審判や判定による劣悪な悲劇を、私たちは見せつけられている。目の覚めるような大ジャンプをみせた高梨沙羅が、着ていたスーツが緩かったという理由で失格となったことを伝えられた大半の人々は、何が起こったのかもわからず、ただただ呆然とし、唖然とし、あるいは憮然としていたにちがいない。泣き崩れる沙羅の姿を見て、その判定に憤りを覚えた人も多くいただろう。競技を見ている私たちにはまったくわけのわからない所で、わけのわからない理由で、しかも参加選手全員ではなく、恣意的に選ばれた選手だけに対して、突然そうした検査が行われ、対象とされた選手が失格という見せしめの刑罰に処される。スポーツにおける審判は絶対神であり、審判がそういえばそうなるのである。 […]
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